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安楽死が認められている国の共通点 ニュージーランドはなぜ合法化が進んだのか

2021年3月16日




2020年10月、ニュージーランドで安楽死を合法化するかどうかをめぐる国民投票が行われた。集計の結果は、賛成が反対を大きく上回るというもの。今年にも合法化される見通しとなっている。スペインやポルトガルでも合法化への審議が始まるなど、欧米を中心として安楽死が活発に議論されているように見える。なぜ今、各国で安楽死の合法化が進んでいるのか。各国の死の捉え方の違いや制度化の背景について、立命館大学 先端総合学術研究科の美馬達哉教授に聞く。

いま、「他人による積極的安楽死」を法律で容認している国は?

2021年10月時点で、「他人による積極的安楽死」を法律で認めている国はいくつかある。1940年代に法律を整備した先駆的な国はスイス。2000年代にかけてはアメリカのいくつかの州やオランダ、ベルギー、ルクセンブルク、2010年代にはカナダ、オーストラリアが加わった。そして2021年、スペインに続いてニュージーランドも安楽死を合法化する法律が施行予定となっている。
この現状について、美馬教授はどのように捉えているのだろうか。

ひとくくりに「欧米=安楽死・尊厳死に向けての議論が活発」ではない

「海外で現在『安楽死』として議論されるものの多くは、積極的安楽死や医師介助自殺とよばれる種類になります。制度の内容自体は、アメリカの一部の州やヨーロッパの一部の国、そしてオーストラリアの一部のやり方とほぼ似たものになるだろうと思います。つまり、『患者が治療の難しい病気で余命6カ月以内であることが、2人の医師によって確認され、署名されること』、『患者に判断能力があること』、『患者は自ら薬を服用しなければならない』といったルールの元で運用されることになると思います。なかでも、すべての国や地域の安楽死で共通する、もっとも重要な点は本人の自己決定というところですね。
欧米において安楽死・尊厳死についての議論が活発なイメージがあるかもしれませんが、キリスト教、特にカトリックの影響が強い地域では『生き死には神の領分なので、人間が自分勝手にコントロールしてはいけない』という思想が背景にありますから、制度化ということは非常に難しい。ひとくくりに欧米全体で合法化が進んでいるというわけではないことを押さえておく必要があります」(美馬教授、以下同じ)

また、美馬教授は今回合法化に舵を切ったニュージーランドの人口と、国民投票の機能についても指摘する。

監修者 立命館大学 先端総合学術研究科 美馬達哉教授
立命館大学 先端総合学術研究科 美馬達哉教授

「ご存じの通り、ニュージーランドの人口は500万人ほどで、東京都の半分にも満たない人数です。日本でいえば地方自治体の1つが決めたくらいの規模なんですね。生死にかかわる根本的な制度の変更ですから、たんに議会での立法や裁判判例だけで決めるのは難しく、国民的な議論や国民投票といった順を踏むことが多くなります。規模の小さい国や地方自治体のレベルでないと、住民による投票という手法そのものがうまく機能しないという側面もあります」

文化的・宗教的な背景はもちろんのこと、それを制度として施行していくとなれば、意志決定には極めて複雑なハードルがある。安楽死・尊厳死には直接関わらないが、国家の規模といった視点も重要なポイントになりそうだ。

ほかの東アジア圏とも異なる、「死の自己決定」における日本人のスタンス

では、欧米よりも文化的に日本に近い東アジアではどうか。

「東アジアでは今、尊厳死や安楽死が議論されている国がいくつかあります。台湾や韓国でも、終末期に関して『尊厳死法』『自然死法』のようなものが認められつつあります。
一方で、昨年の日本生命倫理学会大会でも議論されたのですが、それらの国では『法律を整備することによって、患者本人が尊厳死を強要されることへの歯止めになるのではないか』といった意見が多いんですね。安楽死や尊厳死を法律で定めることで患者の権利を守るという見方は、日本とは違う考え方だと思います。その違いについて文化的背景や社会経済の仕組みから研究していきたいという院生が、私たちの研究科にも在籍しています」

以前のshiRUtoの記事「日本でも“認められた安楽死”がある? 延命と死の自己決定を考える」でも美馬教授が指摘した「死の自己決定」ということについて、日本ではなかなか踏み込んだ議論がなされていない。周囲との人間関係を重視して生き方を決める、日本的な社会風土においては、死について自立した判断を個人に委ねる土壌が不十分だといえるかもしれない。

生命倫理学では、自己決定権と自律(オートノミー)の違いに着目します。たとえば、自律を厳しい意味で捉える哲学者カントは、自分で決めたというだけでは自律にならないとの考えです。家族の事情や個人の好悪で決めるのは、自分自身の理性による自律した判断ではないというのです。日本での自己決定というと自己責任と結びついていて、法的な契約にサインする仕組みに対して漠然と不安を感じる人も多いように思います。例えば、『自筆でサインした“最後の決定”の内容しか守られないのではないか』というような不安です。あるいは、自己決定が実質は安楽死を強要する『本人に対する社会的圧力』になるという懸念も存在します。こうした問題は、じつはカントの考えていた難題とも同根です。日本特有の社会・文化的な事情とみるより、人間の自律とは何かという哲学を背景に深く考えていく必要もあるでしょう」

自己決定というのは、国や文化、宗教によって大きく異なる。特に生死に関わる制度においては、他国のやり方がすんなりと取り入れられるはずがない。安楽死・尊厳死を権利として捉えるとき、「日本ではどのような在り方が現実的なのか」だけではなく、もっと深く議論していく必要がありそうだ。

人生の最終段階を家族や医師と話し合う「ACP=人生会議」は、安楽死の議論を深めるか

厚生労働省は現在、『人生の最終段階における医療については、医療従事者から患者・家族に適切な情報の提供と説明がなされた上で、患者本人による意思決定を基本として行われることが重要』として、ACP(アドバンスド・ケア・プランニング)の取り組みを推進している。また、ACPは2018年12月より「人生会議」という愛称で、さまざまに啓蒙されている。

「ACPとは、人生の最終段階の医療・ケアについて、本人が家族等や医療・ケアチームと事前に繰り返し話し合うプロセスを指します。
やはり日本では、『安楽死法』という形で法律を作るのは馴染まないのという意見が強いですから、ふわっとした感じのACPのような取り組みが好まれています。こうした方法で、日頃から、本人が家族や医療スタッフと議論を深めておくことは大切なことです。しかし、ここでも最終的には『自己決定』と自律の間のずれとどう向き合うかという課題は残ります。
ACPによってくみ上げられた『本人の意志』は、最終的には書類として残さなければなりません。そうすると、作った書類に縛られることになり、『書類がある以上は事情が変わっても変更不可能です』『書いていないことはできません』となってしまうのです」

事前に自らの死をイメージし、信頼できる家族や医師と人生の最終段階について話し合うことは、素晴らしいことだ。しかし、いざ死期を目前にしたとき、事前の“自己決定”が、直近の意志の変化や事情の移り変わりにそぐわなくなって、本人を縛ることになる可能性もあるというのだ。

海外では、ACPによって、患者家族の満足度が向上し、遺族のストレスや不安、抑うつが軽減されたというデータもある。しかし、これは周囲の事情であって、本人の『自律』とは異なる。安楽死・尊厳死の議論を深めるためには、「ACP=人生会議」のようなプロセスをもとにしながら、少しずつ日本に馴染む“終末の作法”を模索していく必要があるだろう。

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大学院先端総合学術研究科 美馬 達哉 教授

美馬達哉

京都大学医学部医学科卒業。京都大学大学院医学研究科博士課程修了。米国国立健康研究所、京都大学大学院医学研究科などを経て、現在は立命館大学大学院先端総合学術研究科教授を務める。専門は医療社会学、脳神経内科学、神経科学。著書に『〈病〉のスペクタクル 生権力の政治学』、『リスク化される身体 現代医学と統治のテクノロジー』、『感染症社会』などがある。

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