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文系学問の未来を担う「デジタル人文学」(前編) 知られざる価値を見出す仕事

2019年12月13日




2015年夏、国公立大学に対する文科省の通知が“文系学部廃止”を求めているように読めると話題になり、メディアやSNSで議論が沸騰、人文学をめぐり多様な意見が飛び交った。

国公立大学の文系学部が縮小の動きを見せる中、私立大学が人文学教育で演じる役割はますます大きくなっている。立命館大学(京都)もその責任を担う大学の一つだ。
そこで本記事では前後編を通じて、デジタル技術と結びついて新しい知見や価値を創造しようとする人文学、すなわち「デジタル人文学」の最前線を同大の専門家2人に取材した。京都から発信されるデジタル人文学(デジタル・ヒューマニティーズ)とはーー。

日本のデジタル・アーカイブを黎明期から推進 浮世絵50万枚をアーカイブ

立命館大学の衣笠キャンパス(京都府)に、アート・リサーチセンター(以下、ARC)という人文学の研究拠点がある。その主な取り組みは、有形・無形の文化資源をデジタル技術を使って保存・研究・発信すること、すなわち「デジタル・アーカイブ」に基づく文化発信だ。
国内外で最大規模を誇る日本文化のデジタル・アーカイブを保有し、ウェブサイトでは浮世絵や古典籍などのデータベース(DB)を公開している。DB利用者は誰でも、キーワードや作成者、年代といったメタデータで検索し、資料の高精細画像や関連データを自由に見ることができる。

歌川広重による「忠臣蔵 夜打」(立命館ARC所蔵)

DBの代表例が『ARC浮世絵ポータルデータベース』だ。世界に200万枚以上流通するとも言われる浮世絵のうち、なんと50万枚以上についてアーカイブを公開しており、浮世絵研究には不可欠なコンテンツとなっている。外部機関の所蔵作品についても、各機関のアーカイブサイトへとリンクを貼ることで、横断的な検索・閲覧を可能としている。

膨大な浮世絵の大半を独力で撮影してデジタル・アーカイブを進めたのが、文学部の赤間亮教授だ。

「私の専門分野は歌舞伎ですが、実は浮世絵の半数近くが歌舞伎をモチーフにしていると言われるので、浮世絵の収集・分析は必須です。しかし歌舞伎の浮世絵だけでも点数があまりにも多い。そのため、若いころから『大量の資料をデジタル技術で整理したい』という関心を持っていました

立命館大学文学部の赤間教授

そんな若手だったころ、働き始めた早稲田大学の演劇博物館(演博)で、コンピューターを使って所蔵資料を整理し取組みをスタートさせた。

「その取組みが、今思えば、私の『デジタル人文学』型研究の出発点でした。Windows95が登場してインターネットが普及し始めると、演博も国内でいち早くネット上の情報発信に取り組み、2001年には5万点の浮世絵DBを公開しました。それほどの規模の文化資源DBはその頃、世界を見渡しても存在しなかったはずです」

しかし当時、日本ではデジタル・アーカイブの意義は十分に理解されていなかった。資料公開への抵抗感は根強く、“インターネット公開したら博物館に来る人が減ってしまう”という懸念をよく耳にしたという。
それでも当時の赤間教授たちは、「一人の研究者が集めた膨大な資料が受け継がれずに死蔵されてしまうのはもったいない。デジタル・アーカイブされれば本人以外も資料が活用できるし、その研究がまたアーカイブされて次代の研究を発展させるはず」と考え、黎明期のデジタル・アーカイブを推進した。

そんな中、赤間教授が着任した立命館大学でもデジタル・アーカイブの一大拠点を作る計画が発足。1999年にARCが設立された。

「ARCの活動としては、まず海外に目を向けました。デジタル・アーカイブは欧米でもまだ新しい試みでしたが、浮世絵については、2002年ころにボストン美術館が5万点のデジタル化を始めたことを皮切りに、ほかの美術館や博物館もデジタル化を進めていた。私たちも縁あって、大英博物館が所蔵する浮世絵をデジタル・アーカイブできることになったのは大きな成果でした」

デジタル・アーカイブされた浮世絵がゲームの背景に!?

格闘ゲームの背景になんと浮世絵が

浮世絵DBの活用は、歌舞伎や歴史研究など人文学のフィールドだけにはとどまらない。同大の理工学部でAIを用いたゲーム開発を研究するターウォンマット教授は、対戦格闘ゲームの背景にDBから抽出した浮世絵を表示し、プレイヤーを楽しませる工夫を凝らした(関連記事)。

「京都のステージを選ぶと、メタデータに『京都』と登録された浮世絵がランダム表示されるそうです。最初は、『どうやって浮世絵をゲームに使うのだろう?』と不思議だったので、とても新鮮でした。自分が思いもしなかった活用法につながる、その驚きこそアーカイブを作る喜びです

ARCのデジタル・アーカイブはもちろん、浮世絵以外の文化資源にも広がっている。
2019年5月、赤間教授は凸版印刷社と共同開発した『くずし字解読システム』を発表した。ディスプレイに表示された古典籍の中でくずし字を選ぶと、一致可能性の高い字をAIが提示するシステムだ。100万件のくずし字の画像データを使った文字検索画像エンジンを凸版印刷からAPIとして提供を受け、ARCが解読支援システムを開発し、76万件の古典籍や浮世絵データベースの中で利用できるようにした。

「4月から大学の講義でも使い始めましたが、学生の雰囲気や態度が大きく変わりました。授業前の教室に行くと、生徒たちがさっそくパソコンを立ち上げて、システムを使って原本を読んでいるのです。関連資料がすべてデジタル化されているからこそ、システムを開発できました」

「研究者自らがアーカイブを作る」 ARCモデルにこだわる理由は?

文化資源デジタル・アーカイブがもたらす成果は、学術研究や教育、エンターテインメントまで幅広い。では、デジタル・アーカイブの有用性を担保するものは何か? 赤間教授はアーカイブの「サイズ」の重要性を強調する。研究者は相当数の資料を自力で集めているから、アーカイブはある臨界点を越えないと『活用したい』と思ってもらえない。反対に一定以上のボリュームを備えたデジタルアーカイブがあれば、かつては何十年もかけないと出せなかった成果がはるかに短い期間で出せるようになるという。

とはいえ、アーカイブ作成は容易ではない。一つひとつの作品を、特徴や詳細が分かるように撮影し、作者・年代・所蔵場所といったメタデータを付与するという、気の遠くなる作業だ。研究者の多くは専門業者に作業を委託する。
しかし赤間教授は、自らが撮影を行い、デジタル・アーカイブを作ることにこだわり、このような研究者自身によるデジタル・アーカイブ作成を『ARCモデル』と呼ぶ。自身の手によるアーカイブ作成にこだわるのは、なぜだろうか?

「私は研究者自身がアーカイブ作業をすべきだと考えます。現物に直接ふれずにデジタル情報を取り扱うだけでは、対象の本質をつかめない。
それにアーカイブ作業は、貴重な文化資源の『すべて』を間近で見て、手にふれられる経験です。こんなチャンスは普通、研究者でもめったにありません。
私自身も、自分が撮影した作品を後からデジタルデータで見ると、そのときの資料の匂いや手触りが自然と蘇ってきます。デジタル・アーカイブできませんが、研究者には必須の経験です」

デジタル技術を導入することは、文化資源そのものが持つアナログな一次情報を軽視するのとはまったく、決してイコールではない。アナログ・デジタルから得られる情報のフル活用が、デジタル人文学というアプローチの本当の目的だ。

文化資源の隠れた価値を見出し、新しい「文化」を作るという仕事

浮世絵やくずし字といった紹介内容から、デジタル人文学やデジタル・アーカイブは歴史資料が中心という印象を持たれるかもしれないが、現代の文化資源もデジタル・アーカイブの対象だ。「ボーンデジタルなコンテンツも多いから、アーカイブはむしろしやすいはず」と赤間教授は話す。

「実際、ARC現センター長の細井教授はテレビゲームのアーカイブ研究者です。『著作権があるからできない』なんてこともありません。セキュリティを確保して公開内容を厳密にすれば大丈夫です。
文化財という言葉には『すでに価値が認められた古いもの』というニュアンスがありますが、デジタル人文学の研究対象は、正確には『文化資源』。古かろうと新しかろうと、まだ誰も価値や意味を見いだしていなくてもいい。自分で意義や意味を見出し、今まで誰も相手にしなかったものが面白がられるようになれば、人文学研究の勝利です」

現代の文化資源で特に注目を集めるのは、アニメやマンガといった商業的に強いコンテンツだ。しかし、それはあくまでも「たまたま」だと赤間教授は指摘する。

「『文化』はお金が稼げなくてスポンサーが必要な分野というイメージも強いですが、新しい文化資源の世界で少しずつでも投資が進めば、文化自体が自立して世の中をもっと豊かにできるはず。
商業的な優位性とは無関係に、魅力的な文化資源は世界にいくらでも隠れています。それを研究するのが人文学の仕事。“文化はお金にならない”と言いながらアニメやマンガなど『稼げる文化』だけに投資するのは視野が狭い発想です
文化資源に隠された面白さを見出し、世界の豊かさに貢献する。学生にもそんな意識を持って人文学に臨んでほしいと思っています」

デジタル人文学の対象は現代の文化資源にも広がり、SNS上のつぶやきなどのビッグデータもその対象だ。後編では、デジタル技術と結びついた地理学が新たに生み出す価値を紹介する。

【後編は12月17日公開予定です】

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