インターネットの出現やSNSの台頭によって、自由に、手軽に、世界とつながることができるように“なってしまった”平成の時代。かつて人々が渇望した「遊動的なつながり」は、生活を豊かにする一方で、生活を窮屈にする一因でもある、ということに、どことなく心あたりを覚える方も多いのではないだろうか。
哲学者の千葉雅也氏は、この過剰な接続を「切断
」することの必要性を説く。それは決して、組織や社会のなかでうまくやる術(すべ)などではなく、支配から“横にずれる”方法論であるという。
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立命館大学大学院 先端総合学術研究科 准教授
1978年栃木県生まれ。東京大学教養学部卒業。パリ第十大学および高等師範学校を経て、東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学専攻表象文化論コース博士課程修了。博士(学術)。フランス現代思想の研究と、美術・文学・ファッションなどの批評を連関させて行う。著書に『動きすぎてはいけない——ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』(河出書房新社)、『勉強の哲学——来たるべきバカのために』(文芸春秋)、『意味がない無意味』(河出書房新社)などがある。
Twitter:@masayachiba
「遊動的つながり」は、グローバル資本主義の最前線で「搾取の最前線」と化した
ーーはじめに、千葉先生が日頃おこなわれている研究についてあらためて教えてください。
千葉:フランスの現代哲学、特にジル・ドゥルーズという哲学者の研究をしています。彼の哲学を簡単に説明すると、「既存の縦割りの秩序ではなく、それをかいくぐって広がる横断的な関係性を肯定する」というもの。固定的で官僚的な“縦の秩序”よりも、遊動的でノマド的な“横のつながり”が新たな価値を生む、という考え方です。
彼の思想は、縦秩序が強かった’80年代には新鮮なインパクトを与えました。しかし、インターネットが登場して、世界は完全にネットワーク化された。現在の社会は、当時ドゥルーズが考えていた「野放図でフラットな接続」(リゾーム)が完全に実装されています。では、そのリゾームが世の中を解放したかといえば、必ずしもそうとは限らない。旧秩序に対する批判として生み出されたはずの「遊動的なつながり」をよしとする考え方は、今はそれ自体がグローバル資本主義の論理に組み込まれ、むしろ人々の生活を統制しているともいえるのではないでしょうか。
ーービジネスパーソンだけでなく、今やすべての人にとって必要不可欠なツールであるインターネットが、一方で我々自身を苦しめている、ということですか?
千葉:いま、新しい価値を生み出しているとされているビジネスの多くは、インターネット上のものばかりが目立ちます。それらは生活を便利にする可能性をもつ一方で、一般ユーザーを“搾取”しかねないという危険もはらんでいるのではないか、ということです。SNSはその最たるものだと思います。ユーザーは横のつながりを享受すべく、頻繁に投稿したり、友人の投稿を閲覧したりするようになる。つながりを求めて常時SNSを利用するという人々に対してさまざまなビジネスが生まれる。
近年では、つながり自体が息苦しくなった結果としての「SNS疲れ」といわれる現象が広まり、「シェアしないことの価値」が謳われています。そうなると今度は、広がりすぎないことを特長としたプラットフォームが台頭します。オンラインサロンのように対象を限定したサービスや、スナップチャットなどの投稿が一定時間で消えるSNSなどが、その典型です。
横のつながりが生活を豊かに、便利にする可能性を秘めていることは事実ですが、一方で知らず知らずのうちに「搾取」されたり、「疲弊」させられたりする危険性も我々は意識しなければならない。そして、そうしたつながりが、次から次へといたちごっこでキリなく構築され続けている。僕はこうした“つながりのビジネス”を注視しています。
考えすぎると動けなくなる。「過剰な接続」から脱するためには「切断」せよ
ーーとはいえ、つながりがなければ、情報を仕入れる術も失ってしまう。むしろ、不安や孤独な気持ちになりませんか?
千葉:ドゥルーズは「縦より横のつながりがよい」とする一方で、「過剰な接続は切断する」ことの大切さも説いています。僕は、その「切断」するという行為を研究しています。著書にも書いている「切断の哲学」とは、接続過剰になって息苦しくなったつながりをそのまま受忍するのではなく、「切断」という行為を通じて、その状況を批判し、息がつける隙間を作って、自分という存在を取り戻すための思想です。
資本主義の組織の駒のひとつとしてひたすら働く、働かされる、といった支配状態から少しでも抜け出す。あるいは支配のなかにあっても何か自分に独自のものを創造するなど、自分で自分をエンハンスするためのきっかけとして「切断」する。その切断を「思考停止」とか「頭からっぽ」と表現して、世の中に伝えています。「人が何かと関係するとはどういうことか」という人間の存在そのものを問いつめながら、それを現実社会と結びつけるというのが、自分の研究の社会的な意義であると考えています。
しかしながら、この概念はしばしば誤解をされてしまうんです。たとえば著書で「考えすぎる人は何もできない。頭をからっぽにしなければ、行為できない。考えすぎるというのは、無限の多義性に溺れることだ。ものごとを多面的に考えるほど、我々は行為に躊躇するだろう。多義性は行為をストップさせる」(「意味がない無意味」河出書房新社)と書きました。これらは、考え「すぎる」行為について語っているのであって、考え「なくていい」とは謳っていない。ところが、表面的に理解をされてしまうと、まるで、考えないことを勧めているように勘違いする方もいらっしゃるんです。