通常よりも酸素の少ない環境で行う「低酸素トレーニング」は今、世界のアスリートから注目を集め、2019年のラグビー日本代表も合宿で取り入れたトレーニングだ。しかしアマチュアとなると、熱心なスポーツ愛好家でも自分には無関係と感じる人が多いかもしれない。
ところが最近、一般ユーザーも利用できる「低酸素トレーニング室」を備えたジムが増えつつあり、各所で人気を集めている。その一つが、アシックスが2019年10月、東京・豊洲でオープンした「ASICS Sports Complex TOKYO BAY」だ。低酸素環境下でのトレーニングルームやランニングレーン、プールなどを備え、低酸素トレーニング施設としては*世界最大級を誇っている。
*都市型低酸素環境下トレーニング施設として。2019年8月時点(アシックス調べ)
開発に協力した後藤一成教授(立命館大学 スポーツ健康科学部)はこう語る。
「低酸素トレーニングは長距離走だけでなく、短距離走や球技、さらには肥満や糖尿病の対策にも効果があるトレーニングです。その門戸が今、大きく広がろうとしています」
高地トレーニングが「平地で誰でも」できる時代へ
低酸素トレーニングは元々、マラソンやクロスカントリーなどの選手の高地トレーニングに端を発する。酸素の少ない環境で運動すると最大酸素摂取量が高まり、持久力が向上する効果が知られている。もっとも、高地トレーニングは国外の高地での合宿などが必要となるため、時間や費用を捻出できる一部のトップアスリートしか行えないのが現実だ。
「その点、アシックスの低酸素ルームでは誰でも標高2000〜3000m相当の低酸素環境でトレーニングを行えます。また、実際の高地と違って気圧は通常のままなので、高地特有の胸が苦しくなる感覚もありません」(後藤教授。以下同じ)
とはいえ、競技によっては持久力よりも瞬発力やスピード能力を高めたい人もいるはず。低酸素トレーニングを有効活用すべき人は限られるのだろうか?
「私も学生時代は『低酸素トレーニングは主に陸上長距離に効果的』と学びました」と後藤教授は明かす。「しかしこの常識は2010年頃から覆りつつあるのです」
「低酸素トレーニング=マラソン選手だけ」は過去の常識
最近、陸上短距離の選手たちの間でも、低酸素トレーニングが広がり始めているという。
「数十年前には考えられなかった光景でしたが、近年の研究で持久力のみならず、陸上短距離やテニス、ラグビーなどに必要なスピード能力も、低酸素トレーニングによって向上すると分かったのです。ラグビーW杯2019の出場国の中でも、4位のウェールズが熱心に取り入れたほか、オーストラリアやフランス、そして日本代表も低酸素トレーニングを行っていました」
後藤教授の研究室でも、女性の球技選手32名を対象とした実験から低酸素トレーニングの効果を明らかにした。被験者を【通常酸素環境】と【低酸素環境】の2グループに分け、週2回・4週間にわたって全力ペダリングによるスプリントトレーニングを行う実験だ。
「4週間後におけるペダリングでの発揮パワーを比べると、低酸素グループではペダリングパワーの増加幅が明らかに大きかったのです。別に実施した研究でも、低酸素環境での高強度運動は、通常酸素環境での同じ運動と比べて筋中の血液量を増やすことが明らかになりました」
低酸素トレーニングが短時間・高強度の“無酸素性運動”の力をも高めることが、実験からはっきりと示された形といえる。かつての常識はすでに過去のものになっているのだ。
低酸素には食欲を抑える効果も
低酸素が血流を改善するとなると、気になるのは低酸素と“健康”の関係だ。後藤教授は「低酸素と肥満に関する調査が海外の研究グループによって発表されています」と話す。
「この研究の画期的だった点は、被験者がアスリートではなく、肥満の指標であるBMIが30を越える肥満男女50名だったことです。通常酸素と低酸素の2グループに分かれ、4週間にわたって毎日60分のランニングやウォーキングを行いました。そして4週間後の身体データを測定したところ、低酸素グループの方が体脂肪量の減少率が高かったのです」
低酸素環境が肥満対策になりうることを示す結果だ。その理由は、低酸素下での運動では通常よりも多くの糖を使い、運動後は脂肪を多く使うようになることだという。
また後藤教授は「低酸素環境では通常よりも体重も減りやすい」と話し、そのメカニズムを次のように解説する。
「体重の増減は、食事による摂取エネルギーと、運動による消費エネルギーのバランスで決まります。しかし実は、低酸素環境で運動を実施した場合でも、通常酸素環境で同一の運動を実施した場合と比較して、エネルギー消費は増えません」
では、なぜ体重が減りやすくなるのか? カギは「食欲」だ。
「食欲は胃や消化管から放出されるホルモンに影響されますが、低酸素との関係で特に大切なのは、食欲を増進させる唯一のホルモンである『グレリン』です。低酸素環境で運動すると、胃での血流量低下といったメカニズムで、胃からのグレリン放出が抑えられます。すなわち食欲が通常よりも抑えられて食事量が減る。そのため体重も減りやすくなるのです」
海外の研究でも、低酸素環境で7時間過ごした被験者のグレリン濃度を測ったところ、通常酸素グループよりも一定して低く保たれるという結果が出た。途中に提供したビュッフェ形式の食事では、食事量は30%も少なかったという。
「運動自体にもグレリンを減らす効果があり、特に朝の有酸素運動は1日を通して効果的です。低酸素環境ならばグレリンがさらに減って、食欲抑止効果は日中も継続するはずです」
食後血糖値を下げる効果にも期待大
低酸素に期待されるのは肥満対策だけではない。後藤教授は近年、糖尿病にフォーカスした研究を進めてきた。成人男性20名の比較対照実験から明らかにしたのは、低酸素環境が『食後血糖値を下げる』効果だ。
「実験では、低酸素トレーニングを4週間続けたグループの食後血糖値が大きく抑えられたほか、血糖値を下げるインスリンの効き目も高まると分かりました。理由としては、血管拡張によって血液中のブドウ糖が筋肉に運ばれやすくなることや、筋肉で糖の取り込みを促すタンパク質の発現が増えることなどが考えられます。海外でも、低酸素環境で安静にしていただけの2型糖尿病患者の血糖値が下がったという報告がありますね。
食後血糖値が高いと糖尿病や心筋梗塞などのリスクにつながりますので、研究の意義は大きいはず(関連記事)。私も現在、糖尿病や高血圧など生活習慣病への予防効果に関する研究を進めているところです」
一家に一部屋「低酸素ルーム」ができる未来が訪れる?
後藤教授は低酸素環境の普及について、「低酸素住宅や低酸素オフィスが生まれてくるかもしれない」と将来像を描く。
「建物の一部を低酸素環境にすることは、技術的にはもはやそれほど難しくありません。たとえば寝室や会議室を低酸素環境にできれば、生活習慣病の予防にもつながるはずです。アシックスの新しいフィットネスクラブも、そのような社会実装への起爆剤になりうると期待しています」
体験できる場所はまだ限られるが、低酸素環境が普及した暁には一部のアスリートに限らず、私たち誰もの生活の質を大きく向上させてくれるだろう。遠くない将来、低酸素ルームを備えた「低酸素ハウス」が当たり前になる日も遠くないかもしれない。
後藤一成
筑波大学体育科学研究科博士課程修了。日本学術振興会特別研究員、早稲田大学スポーツ科学学術院助教を経て、現在は立命館大学スポーツ健康科学部教授を務める。専門はトレーニング科学であり、スポーツ競技力の向上や健康の維持増進をねらいとした各種トレーニングの効果およびその効果の機序の解明に取り組んでいる。