カーボンニュートラルや脱炭素社会の実現に向けて、建築の分野でもさまざまな新工法や設備などの開発・導入が進められているが、その進捗や効果が見えにくいことが課題のひとつになっている。立命館大学理工学部の近本智行教授に、同大学びわこ・くさつキャンパス(BKC)にある研究・実験棟「トリシア」で行われている課題解消への取り組みや、カーボンニュートラルやCO2削減の現状、新たに生じた問題など、幅広く解説してもらった。
● カーボンニュートラルな街の外観はどうなる?
● 水と太陽のエネルギーを最大限に活用する温熱技術
● カーボンニュートラルが交通と食の風景を変えていく
● 人類には地球1.75個が必要?
● ヒューマンファクターで最適な住環境を
カーボンニュートラルで街の外観は変わらないが、中身は大きく変わる
日本政府は、2050年までに「カーボンニュートラル」を実現すると宣言している。カーボンニュートラルとは、CO2などの温室効果ガスの「排出量」と、森林などによる温室効果ガスの「吸収量」を均衡させ、実質的にプラスマイナスをゼロにすることを指す。
温室効果ガスの増加は世界の平均気温の上昇を招き、豪雨や猛暑などの気象災害や気象変動の原因となると考えられている。そのため、温室効果ガスの排出量の削減と吸収量の拡大、また、「脱炭素」の実現に、社会全体で取り組むことが必要とされているのだ。
カーボンニュートラルの実現や脱炭素社会の構築に向けて、立命館大学 サスティナビリティ学研究センター(RCS)のセンター長である近本教授は、環境と共生可能な建築や、人の快適性、生理現象などについて研究している。その教授の目には、未来のカーボンニュートラルな街は、どのように映っているのだろうか。
「建築物の寿命は30年から40年で、そこに備えられている設備の寿命は、一般に15年から20年です。ですから、カーボンニュートラルが実現したからといって、おそらく街の姿が一変することはないと思います。一方で、大きく変わるのは建物の断熱性能です。熱の侵入をしっかりと防ぐ構造になっているのはもちろん、過ごしやすい季節には、開口部を大きく開けて外気を取り入れることができる建物が増えています。
オフィスで、住宅を問わず、建物の温熱環境の維持や、空調、換気などに使うエネルギーは、エネルギー消費の大部分を占めています。私たちの研究室では、それらのエネルギーを削減し、カーボンニュートラルに資する技術を開発したいと考えています。また、温熱環境や空気環境は、快適性はもちろん、健康や生産性などにも大きく作用するので、それらの面からの研究も必要です」(近本教授、以下同じ)
その研究の拠点が、びわこ・くさつキャンパスにある研究・実験棟「トリシア」だ。
カーボンニュートラルな温熱環境を「地下水と太陽の力」で実現
立命館大学 びわこ・くさつキャンパスにある「トリシア」は、研究拠点でありながら、建物自体が教材の役割もはたしているというユニークな存在だ。
「理工学部の校舎であるトリシアには、『エアコン高効率制御システム』『外壁のウレタン遮熱工法』『24時間半永久的サイクル消臭』『新方式風力発電システム』といった新しい工法やシステムなどが多数導入されています。
これらは、RCS内に設けた『グリーンビルディング・コンソーシアム』という組織に参加した20社の企業の技術を用いて、大学と共同で導入したものです。学生たちは、トリシアを利用する中で、新しい工法やシステムについて具体的に学ぶことができ、一方で企業は技術や製品の評価実験を行える仕組みです。
これまでの評価実験の中で、好結果を出しているもののひとつが、『躯体スラブ蓄熱放射冷暖房システム』。小型ヒートポンプで地中熱や太陽熱を採熱し、その熱エネルギーで温度を調節した水を、建物の躯体の中を通して室内に送り、冷暖房するシステムです。
地中温度は年間を通じて 15℃から18℃程度なので冷房に適し、太陽熱は冬季の暖房に活用することができます。この冷暖房システムのように、新しい技術は建物の外観デザインからはわからない例が少なくありません」
見えない、気付かれないけれど、極めて効率のよいエネルギー活用を行う。それが、カーボンニュートラル実現に向けた技術の社会実装において、非常に重要な視点になる。
カーボンニュートラルが変える「交通」や「食」の風景
カーボンニュートラルに向けた建築技術の進化や、街の景観の変化が見えにくい一方で、「交通」や「食」の分野では、目に見える形で変化が進むのではないかと近本教授は予測する。
「カーボンニュートラルや脱炭素の実現には、未来の姿やビジョンを提示し、理解や協力を得ることが必要です。その点では交通の面で変化は早く現われると思います。
たとえばロンドンでは、2019年に市内にULEZ(Ultra Low Emission Zone)という区域が設けられ、そこに電気自動車や排ガス基準を満たしている自動車以外で入ると、約2000円が徴収されることになりました。2021年にはULEZエリアが大幅に広くなりました。また、電気自動車やプラグインハイブリッド車(PHV)以外で、平日の昼間に市の中心部に入ると渋滞税(約1900円)が課せられるので、該当する車はダブルで課税されることになります。この施策が浸透して、公共の交通機関とEVの利用が普及すると、ロンドンの道路の姿は一変すると思います。
一方、自動車が温暖化に与える影響を大きく上回るのが、牛のゲップです。牛のゲップにはメタンガスが含まれていて、メタンガスが温暖化に与える影響はCO2の約25倍とされています。試算によると、牛1頭のゲップは自動車3台が1年間走った場合に相当する温室効果ガスを排出することになります。すでに牛肉の代替として大豆ミートが普及し始めていますが、そのような食環境の変化を、カーボンニュートラルとともに理解しておくことも重要でしょう」
ロンドンのような取り組みが効果をあげるには、市民だけでなく観光客なども含めた幅広い人の参加と意識の変革が欠かせない。日本においても、交通や食、そして観光の景色は、少しずつその装いを変えていく可能性がある。
地球が1.75個ないと足りない!? カーボンフットプリントが突きつける課題
人類が排出しているCO2を捉える指標として、「カーボンフットプリント」という概念がある。カーボンフットプリントとは、すべての商品やサービスの生産から廃棄までのライフサイクルを通したCO2の排出量を表示したものだ。
「カーボンフットプリントを用いて、人類の活動が持つインパクトを計算すると、現在人類が排出しているCO2は地球の生態系が再生できる量の1.75倍に上るという試算があります。つまり、我々の現在の生命・消費活動を続けるには、地球が1.75個必要だということです。いかに現代の社会構造が、地球のキャパシティを超えているかがわかります。人類の持続可能な生存環境を守っていくための、カーボンニュートラルをはじめとした取り組みの重要性が、カーボンフットプリントの数字にも表れているのです」
近本教授は、地球環境にも健康にも最適な住環境の提供を「ヒューマンファクターで考えたい」と語る。ヒューマンファクターとは、設備や環境における「人間の行動特性」を意味する言葉だ。
「たとえば、夏は気温26℃、湿度50%という環境がもっとも快適かというと、必ずしもそうではありません。外回りをしてきた人は26℃では暑く感じたり、反対に内勤の女性たちは寒いと感じたりします。人によって温度や湿度の感じ方は違うし、行為によっても違います。そこで、人の状態や生理量、活動量をセンシングしながら、『ヒューマンファクター』という概念で整理して、それぞれの人にベストなコンディションを提供できないかと考えています。
さらに快適性だけでなく、健康や知的生産性に資するコンディションの提供も必要です。そして、そのコンディションを少ないエネルギー、できればゼロエネルギーで提供したいと考えています」
これまでのように、リモコンで温度や湿度を設定することだけが快適な住環境の提供ではなく、より人間に則したエネルギーマネジメントが社会実装されていく。快適さやニーズを超えた「人間への回帰」が、未来の建築のあり方や街の景観を変えていくかもしれない。
近本智行
1989年東京大学工学部建築学科卒業。1994年同大学院博士課程修了(博士(工学))。1994年から日建設計勤務(環境計画室)。2004年から立命館大学で教鞭をとる。著書に「建築物の省エネ技術 省エネ適判に備える」(学芸出版社)他。2006年空気調和・衛生工学会賞論文賞、2001、2016年同学会技術賞、2008~2022年同学会振興賞技術振興賞8件、2002年環境・省エネルギー建築賞 国土交通大臣賞。