「ナラティブ・アプローチ」とは、個人の語った経験に着目し、その“物語”を通して、そこで起こっている現象に迫る研究・実践手法を指す。臨床心理学の分野で1980年代後半から活用されはじめ、現在では医療・臨床心理に加えて、キャリアコンサルティング、司法など、さまざまな分野で取り入れられているという。
このナラティブ・アプローチで子どもを望むも授からなかった女性たちを見つめ、背景にある決断や葛藤、心の動きに迫った研究者は、そこから何を見出したのだろうか?
すべての人間がもつ“次世代への継承”という根源的な欲求
ナラティブ・アプローチを専門とする立命館大学 総合心理学部の安田裕子教授は、初めて研究に取り組んだ修士論文のテーマとして、子どもが授からなかった女性たちの経験をとらえることを選んだ。ナラティブ・アプローチでは個々の物語を集積し、その多様性を尊重しつつ、共通点や傾向をつかんでいくが、対象者に子どもが授からなかった女性たちを選んだ理由は何だったのか。
「人間には『何かを次世代に繋いでいこう』という根源的な欲求があるのではないでしょうか。子どもを産み育てることだけでなく、口承、書き物、造形物などにより何かを残そうとすることもあります。教育者や企業人、芸術家などとして後進を育てたり、社会貢献を通じてそれを実践する人もいるでしょう。地域社会で多世代が触れ合うなかで、人びとが互いに育ち合いながら何かが残されていくようなこともあるでしょう。自分らしい生を営みながら、結果として何かが次の世代に受け継がれていくこと、何かを受け継いでいこうとすること。こういったことに比較的早いころからどこかしら関心をもってきたように思いますが、それが時間経過のなかで確かな問いとなりました。
上に述べたように、産み育てることは次世代継承のひとつのかたちであり、また、さまざまな生き方が認められるようになっている昨今ですが、子どもを産み育てる自己像を当たり前のように思い描いてきた女性たちにとって、それが叶わない現実に直面することの衝撃は、極めて大きなものとなりえます。そうした断絶ともいえる出来事をどのように乗り越えていくのか、その辛苦の経験から何か立ち上がってくるものがあるのではないか、と考えるに至りました」(安田教授、以下同じ)
女性たちの物語から立ち上がる「自らへのリスペクト」
安田氏がインタビューを行ったのは、子どもを望み不妊治療を試み、しかし結果として子どもを産むことができなかった女性たちだった。経済的な基盤を整え、生活上にも制約を伴う治療に取り組む過程では、身体的、精神的な負担も大きい。それでも希望をつなぎ治療を続け、しかし、あるタイミングで治療を”やめる”選択をした女性たちだ。
「彼女たちは、大変な治療に向き合い、結果、治療をやめるという選択をしました。その経験と選択を、そして、次に向かっていった自らの生きざまを、意味あるものとして語ってくださったのが強く印象に残っています。その語り方には、自分自身へのリスペクトがとらえられました。結果として出産には至りませんでしたが、その経験は、子どものいない人生を歩む自己や夫婦関係のとらえなおしなどとして意味づけられていました。血のつながりのない子どもとともに築く親子関係への展望が語られもしました。実のところ、インタビューに協力いただいた女性は、養子縁組で子どもを育てることを考えた女性たちでした。
そんな彼女たちの経験から感じたのは、自分自身が決めたこと、大事だと思うことを、やり抜いてこそ何かが拓かれてくる、ということでした。その過程では大きな苦しみもありますが、それでも、自分自身と向き合い、自分にとって大切なことをやり通すことで、次に目指すべきもの、歩んでいく方向性が、見えてくるのだと思います」
ナラティブ・アプローチによりとらえられた経験の、複線径路等至性モデリングによる可視化
上図は、複線径路等至性モデリング(Trajectory Equifinality Modeling: TEM(テム))と呼ばれる研究手法のイメージ図である。
TEMの特徴は、人間の発達や人生の径路の多様で複線的なプロセスを、「ある有り様に等しく到達する」こととともにとらえる点にある。そのある有り様に至りその後に持続する時間的変容を分析することにより、人が、制約と共にある可能性のもとで、さまざまなことを経験しながらどのように自らの「生」を構成していくのかを描くことができる。
「不妊という経験には、子どもをもつことの社会的・文化的意味とその歴史的な変遷を背景に、産む当事者である女性の願望、カップルの関係性、子ども観や家族観、ジェンダー規範など、さまざまなテーマが浮き彫りになります。こうしたいくつものテーマの絡み合いのなかでとらえられる、葛藤と意思決定の様相を分岐する有り様(分岐点)やほぼ必ず通ると考えられる有り様(必須通過点)として焦点をあてつつ視覚化していく。ナラティブ・アプローチによってとらえられた経験を、時間にひらき転換点をあぶりだしながらプロセスとして可視化しようとするTEMにより、不妊や不妊治療という事象が有している文化のようなものへの洞察を深めていくことができます。
TEMによりモデル化された個々人の尊い物語が集積され、それらが社会に共有されていくことで、ひいては当事者の方の助けになることを期待しています」
子どもを望むも生むことはできず、しかし人を育てたいと養子縁組を試みた女性たちの物語。その一つひとつが積み重なり、同じ悩みをもつ女性たちを支える力になっているのだ。
TEMは、心理学をはじめ、保育学や看護学、言語学、経営学など、多くの分野で活用されているという。複線性や多様性、可能性や潜在性がうめこまれた人の生をとらえながら、必須の通過点や行動や選択を促す「記号」が立ち上がる分岐点などを見出す方法論は、我々の社会にある「文化」をあらためて捉え直す機会を与えてくれるものといえるだろう。
安田裕子
関西大学文学部教育学科卒業。立命館大学大学院応用人間科学研究科応用人間科学専攻修士課程修了。立命館大学大学院文学研究科心理学専攻博士課程後期課程中退。京都大学大学院教育学研究科非常勤教務補佐、立命館大学衣笠総合研究機構専門研究員等を経て、2015年に立命館大学文学部准教授に着任(専任)。現在は、総合心理学部人間科学研究科教授を務める。専門は臨床心理学、生涯発達心理学、質的心理学。現在の研究テーマは、「生殖から始まるライフサイクルにおける、危機と回復に関する質的アプローチによる研究」など。