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「ゲーセン」はどこから来て、どこに向かうのか ニッポンゲーセン変遷史

2023年3月16日


「ゲーセン」はどこから来て、どこに向かうのか ニッポンゲーセン変遷史

「ゲームセンター」と聞いてどういう光景を思い浮かべるかは、世代によってずいぶん違うのではないだろうか。それは、人気のゲーム機も、ゲームセンターの雰囲気も、激しく変化してきたからだ。ゲームセンターの変遷から何が見えてくるのか、『日本の「ゲームセンター」史(福村出版)』著者で立命館大学先端総合学術研究科授業担当講師の川﨑寧生氏に聞いた。

〈この記事のポイント〉
● 日本のゲームセンターの原点
●ゲームセンター拡大のきっかけとなったゲームとは?
● ゲームセンターは衰退しているのか?
● 日本のゲームセンターが独自の発展を遂げてきた背景

日本のゲームセンターはデパートの屋上遊園地から始まった

日本のゲームセンターの先駆けは、1931(昭和6)年、松屋呉服店浅草店(現、松屋浅草)の屋上に開設された「スポーツランド」だとされる。川﨑寧生氏は、その1931年以降のゲームセンターの歴史には、次のような大きな流れがあったと捉えている。

日本のゲームセンター史の大きな流れ

初めに、日本のゲームセンターはどのような変遷を辿ったのか、川﨑氏の解説を交えながら駆け足で見ていくことにしよう。

1931年に誕生した屋上遊園地産業は、その後、多くの百貨店やホテルに硬貨投入型の娯楽機器を納入し、ゲームを楽しめる場を広げていった。しかし、日中戦争の激化に伴い、1940年7月、鉄製品の娯楽機器の設置・運営が禁止され、ゲーム機普及の流れは止まってしまう。
その後、戦後になって、まず百貨店の屋上遊園地が復興する。続いて、欧米から輸入されてきたGame Arcadeのようなゲームセンター産業が生まれ、初めはバーや映画館、遊園地などに、1950年代後半には全国の旅館やホテル、ヘルスセンター、ドライブインなどに、ゲームコーナー(併設型店舗)が広がっていく。
さらに、1960年代半ばになると、駄菓子屋やおもちゃ屋といった子どもを対象にした店舗にゲーム機が置かれるようになっていった。

「1930〜1960年代の黎明期、日本のゲームセンターは、屋上遊園地とゲームアーケードという2つの流れが主体となって発展していきました。その中で、後のナムコ、タイトー、セガなど、日本のゲーム業界を牽引する企業が育っていきます。
日本のゲームセンター史を振り返る上で重要なことは、この黎明期に多様な店舗の形態が生まれていることです。このことが、日本独特のゲームセンターの文化が生まれる大きな要因になったと思います」(川﨑氏、以下同じ)

屋上遊園地とゲームコーナー
ならファミリー屋上ゲームコーナー(現在閉園)の屋上遊園地とゲームコーナー(2020年、川﨑氏撮影)

1980年代、ゲームセンターの急拡大が軋みを生んだ

1970年代、ゲームセンターが全国展開するきっかけとなる2種類のゲーム機が現れる。一つはメダルゲーム、もう一つがビデオゲームだ。

「メダルゲームが大流行したことで、今のゲームセンターに近い形態の、完全にゲーム機の運営だけで成り立つ店舗(独立店舗)が生まれていきます。さらに、そうした店舗の成功を見て、メダルゲーム機は全国各地に広がっていきました。
1970年代後半になると、『ブロック崩し』のテーブル型筐体が喫茶店、バー、スナックに置かれ始めます。大人向けを想定したゲームでしたが、若者文化にも浸透し流行となります。
さらに、1978年から『スペースインベーダー』が爆発的な人気を集め、ゲームセンターが増殖するとともに、ビデオゲーム機が全国の多様な場所、施設に設置されるようになっていったのです」

しかし、このゲームセンター産業の急拡大は、業界に軋みを生む結果ともなった。
1980年頃は青少年の非行が社会問題化していた時期で、「ゲームセンターが不良の溜まり場になっている」といった批判が、教育者や保護者から上がっていた。また、賭博機器を使った犯罪も横行していて、濡れ衣を着せられる形で、ゲームセンター業界が批判の的となることもあった。
そうした風潮を背景に、ゲームセンターを法的に規制していこうという流れが生まれ、1985年、ゲームセンターは風俗営業法(風営法)の適用対象とされ、さまざまな規制を受けることになっていく。

「風営法適用後、ゲームセンター産業は一時的に売り上げを落としますが、新しいゲーム機の開発や社会の要請に対応していこうとする業界の努力によって立ち直りを見せます。
新規のゲーム機で言えば、1985年に『UFO CATCHER』(セガ,1985)などのプライズゲームや、『アウトラン』(セガ,1986)や『スペースハリアー』(セガ,1985)のような体感型の大型筐体ゲームが誕生し、その後の1990年代のゲームセンターの黄金期につながっていったと言えるでしょう。
社会的要請への対応という点では、業界のそれまでの歴史が大きく関係していると、私は捉えています。ゲームセンター産業は、一貫して多様な客層に向けた健全な娯楽施設を作ろうと努力してきましたし、『ゲームセンターはカジノ・賭博施設とは違う、合法的な娯楽施設だ』ということを社会にアピールし続けてもいました。
風営法の適用は、そうした取り組みをさらに進ませることになりました。その結果、ゲームセンターに対する理解が深まり、風営法適用後の社会がゲームセンターを受け入れたのだと思います」

『UFO CATCHER』
『UFO CATCHER』は現在まで続く人気を確立した(2019年、梅田ゲームゼロにて川﨑氏撮影)

格ゲーの流行が終息し、売り上げも減少。ゲーセンは衰退しているのか?

1985年は、『スーパーマリオブラザーズ』が発売され、ファミリーコンピュータをはじめ家庭用ゲーム機の流行が訪れた年でもある。その後の自然な流れとして、アーケードゲーム開発企業は家庭用ゲーム機では再現できない技術や外観を持ったゲーム機の開発に力を入れるようになり、ゲームセンターに置かれる筐体が大型化・特殊化していった。

この傾向が加速していったのが、1990年代だ。

「1990年代、ゲームセンター自体の大型化も進んでいきました。背景にあったのは、筐体の大型化・特殊化の影響だけでなく、多様な客層を呼び込もうという戦略です。客層ごとにさまざまな種類のゲーム機を設置するようになり、店舗内のゲーム機の台数も増えていったのです。
一方、アーケードビデオゲームにも、大きな変革が訪れました。一つは対戦型格闘ゲームと呼ばれるジャンルを中心とした『対人戦』の流行、もう一つがポリゴンなどを利用した3D技術の投入です。
特に、1991年に登場したカプコンの対戦格闘ゲーム『ストリートファイターⅡ』の大ヒットによって対人戦の流れが確立、定着していくわけですが、1980年代にも少なからずあった見知らぬ人同士のコミュニケーション、コミュニティの多様な在り方に、新たに人との直の対戦や交流を志向する空間が生まれました。これら多様なコミュニティ、コミュニケーション空間の重なりが、ゲームセンターの在り方にも大きな影響を与えたと考えています」

2000年代に入ると、対戦格闘ゲームの流行が終息し、汎用型ビデオゲーム(いわゆる普通のアーケードビデオゲーム)の人気は失速。ゲームセンター市場の売り上げも2006年をピークに2014年まで減少を続け、店舗数は2000年前後から大幅に減少し始めている。ゲームセンター市場の衰退も指摘されるような状況だが、川﨑氏はどう捉えているのだろうか。

「店舗数が減り続けているのは、アーケードゲーム機の価格が上がり、中小規模のゲームセンターが大型・最新のゲーム機を導入することが難しくなっていることが大きな要因です。喫茶店や駄菓子屋などのゲームコーナーはそもそも大型の筐体を設置できませんし、チェーン店や大型店舗の出店に押され、商店街の中小店舗・個人経営の店自体が減っていることも影響しています。
ただし、それでも新しいゲームはどんどん出ていましたし、新しいタイプのアーケードゲームも生まれています。大型のゲームセンターの店舗数は増加傾向で、また中小のゲームセンターも様々な方策を立てるなど、ゲームセンター産業はある程度元気な状態を維持していました。売り上げの減少も、アーケードゲーム自体の魅力が落ちたというより、リーマンショックなど不況の影響の方が大きい。実際、2010年代後半からは売り上げも伸び始めていました。
しかし、新型コロナウイルス感染症の拡大は想定外で、特にイベントを開催して集客を図っていたゲームセンターを中心に、ゲームセンター産業全体が大きな打撃を受けました」

日本のゲームセンターが独自の発展を遂げた背景にあったもの

ここまでゲームセンターの歴史を概観してきたが、川﨑氏は「その発展過程は日本独自のものだった」と指摘する。
例えば米国では、主に若い男性が立ってプレイするゲームが多いGame Arcadeと親子連れ向けのアミューズメントパーク(Family Entertainment Center)が、まったく別のものとして位置付けられているのに対し、日本では、黎明期から多様な形態の店舗があり、ゲームセンターが「いろいろな人向けの場所」として作られてきた。
そして、特に1970年代から1980年代にかけて、喫茶店や駄菓子屋・玩具屋・書店、さらにはクリーニング店などにもゲームコーナーが展開され、外国には見られないような独自の文化がつくられていった。

こうした小規模なゲームコーナーは、主たる事業は別にありながら、その中でゲームを遊んでもらうという特殊な形態のゲームセンターです。そこでは、場所の特性が置かれるゲーム機に影響を与え、置かれるゲーム機によって客の時間の過ごし方が変わるという、場所と客が相互に影響を及ぼし合うという関係性が成立していました。
例えば、駄菓子屋の場合、子ども向けのお菓子が安くスーパーで買えるようになると、遊び場として店を延命させるためにゲーム機を導入していったという側面がありますし、店主や近所の住民といった周りの大人たちの緩やかな監視の下で子どもたちが遊びやすい環境になっていたと考えられます。
喫茶店の場合、スマホもノートPCも無い時代、客が時間を潰せるものが店舗側に求められていました。そこにテーブル型のゲームが現れたことで、社会人・学生たちがちょっと空いた時間に気晴らし的に少しだけゲーム機で遊ぶというスタイルが、喫茶店から始まっていったと言えます。
このように、ゲーム機が置かれた場所ごとにそれぞれ異なったゲーム空間、ゲームセンター文化がつくられ、独自の社会的役割を果たしていったことが、日本のゲームセンターの大きな特徴です」

おもちゃ店や駄菓子屋のゲームコーナーやガチャガチャ
おもちゃ店や駄菓子屋のゲームコーナーやガチャガチャは、大人たちの緩やかな監視の下で子どもたちが遊びやすい環境ともいえた(2014年、大阪市東住吉区にて川﨑氏撮影)

日本のゲームセンターは、多様な場所、多様な形態で展開し、多様な客層を取り込むことに成功し、独自の多様で重層的な文化をつくり上げてきた。こうした背景があったからこそ、川﨑氏が「他国のゲームセンターは1990年代末までには衰退・変容していったのに対し、日本のゲームセンターは現在に至るまで過去の形を維持することに成功している」と表現する、独自の進化を遂げたのではないだろうか。
そして、川﨑氏は、未来に向けての生き残りの道を模索するゲームセンター産業にとって、ゲームコンテンツも含め、これまで蓄積してきたものをうまく活用することも重要な手立てになるのではないかと語る。

「個人的な思い入れも含め、ゲームセンターは生き残ってほしいと思っていますし、研究者としては、特に中小の店舗が営業を継続していけるような研究にも取り組んでいきたいと思っています。
その観点で私が注目しているのは、レトロなゲーム機を置いて、昭和、平成のゲームを体験しつつ今の娯楽にも触れられるという、博物館的なスペースで博物史的にゲームを楽しんでもらう形態です。その上で、イベントの開催・運営、対戦会、動画配信などを組み合わせ、繰り返しゲームセンターに足を運んでもらうようにしていくのです。
今後生まれるであろう新しいアーケードゲームとともに、いかにゲームセンターでなければできないものを提供していけるか、そこに、ゲームセンターの未来があるのではないでしょうか」

ゲームが個人化し、VRなどの仮想空間も飛躍的に進化している現在、ゲームセンターが持つ“リアルな場”としての魅力は代替不可能な強みでもある。日本で独自進化を遂げた文化が、未来に繋がっていくことを期待したい。

川﨑寧生

1984年、奈良県奈良市生まれ。立命館大学先端総合学術研究科授業担当講師。博士(学術)。専門は歴史社会学、戦後日本史、社会統制史。ゲームセンターを中心とした娯楽施設について、それらの「場所」にいる人々と娯楽のありようや、施設に対する社会統制が与える社会的・歴史的影響に着目して研究を進めている。近著として『日本の「ゲームセンター」史: 娯楽施設としての変遷と社会的位置づけ』(福村出版,2022)がある。

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