文化遺産は人類の歴史を後世に伝えてくれる貴重な存在だが、ノートルダム大聖堂の焼失(2019年)に象徴されるように、決して永久不変なものではない。有形・無形の文化遺産をデジタル保存する“デジタルアーカイブ”の必要性は広く認識されつつある。
その世界的な中心拠点が京都にあることはご存知だろうか? 立命館大学のアート・リサーチセンター(ARC)は1988年の設立以来、文理融合を掲げ、一貫してデジタルアーカイブ研究に取り組んできた。そして近年、このARCから生まれたイノベーションが「3次元透視可視化」と呼ばれる技術だ。開発者の田中覚教授に話を聞いた。
「ガラスが半透明に見える原理」を応用 物理学のバックグラウンドが鍵に
3次元透視可視化とはどんな技術なのか。まずはこちらの動画をご覧いただきたい。
これは田中教授の研究室が、3次元計測で得られたデジタルアーカイブデータのみを用いて作成した、古民家の3次元透視可視化だ。栗東歴史民族博物館(滋賀県)が保存している。従来の3次元計測用のCGとは違って全体構造が“半透明”で描かれているため、屋根や壁などの外部構造だけでなく、内部構造や室内の調度品までもがひと目で見て取れる。このように3次元透視可視化技術を使うと、物体の内外を同時に透視して立体構造を直観的に把握することができる。
技術のキーワードは「点」だ。田中教授は2000年ころから、点を使って物体を描くCGを研究してきた。従来のCGで使われていた最小単位は三角形や四角形などの「面」だったが、より精密な絵を描くには面よりも点が適しているからだ。研究を重ね、精密で美しい絵を点で描くことは可能になった。しかし各業界から求められる技術水準はさらにレベルが高かった。それが「3次元透視可視化」だ。
「たとえば、臓器を半透明に描いて内部の腫瘍を透視できる画像があれば、医療関係者がよりリアルに手術をシミュレーションできます。工場における設備配置(プラント・シミュレーション)の分野で活用したいという産業界の希望なども耳にしていました」
これを実現するには、物体を半透明に透視して描くと同時に、立体構造の前後上下関係、すなわち奥行きも正しく描く必要がある。この課題をクリアするために田中教授は、「確率的ポイントレンダリング法」という手法を開発した。ガラスや水が半透明に見える原理を参考にしたという。
たとえば、完全に透明ではない半透明なガラスを考えよう。このガラスはなぜ半透明に見えるのか。それは簡単にいえば、ガラスの向こう側から発せられた光のほとんどがガラスを透過して私たちの目に入ってくる一方,一部の光がガラスの分子にブロックされて目に入ってこない「半分見える」状態が実現されているからだ。とはいえ、ガラス内部にある分子の位置関係を把握してコンピュータ上で再現することは困難。そこで田中教授は、“手前のものから発せられた光の方が目に入る確率が高い”と設定して、光が目の中に入る確率をシミュレーションしたところ、見事、正確な奥行きのある立体構造を半透明で描くことに成功した。しかも、描画に要する時間は非常に短い。
「自然現象を手本にしたわけですが、自然の摂理というのはすごいですね。私が以前に研究していた、物質の究極を探求する素粒子物理学では、コンピューターによる確率計算で自然現象を解明するというのはしばしば使われる手法でした。その手法を3次元透視可視化にも応用したところ期待通りの成果が出たのです」
素粒子物理学というバックグラウンドで得た手法をCGの世界に持ち込むことで、世界初技術というブレイクスルーが生まれたのだ。現在でもなお、大規模な3次元計測データの正確な3次元透視可視化を実現しているのは、当技術だけだという。
計測技術の進化が追い風に “時系列の可視化”も可能になった
もっとも、点で物体を描くには可視化技術だけでは足りない。描きたい物体を「3次元計測」し、物体の形やサイズのデータを得る必要がある。計測で得た点の集まりは“ポイントクラウド”と呼ばれ、対象によっては数十億点にも上るという。「幸運にも私たちの研究と並行して、3次元計測技術が大きく進歩していました。私たちはその成果をフルに活用させていただいています」と田中教授は言う。計測器の小型化やドローンの普及で、かつてよりも簡単かつ広範囲にビッグデータを取れるようになったことが、可視化にも追い風だったのだ。
そんな状況を背景に田中教授が今まで計測・可視化してきたのは、主に日本国内の文化遺産だ。冒頭で紹介した古民家や、藤森神社(京都市)、瑞巌寺(宮城県松島市)、大学キャンパス地下の製鉄所遺跡(木瓜原遺跡)などが挙げられる。「古い建築物には設計図がないため、建物内外の全体構造を知る手段として3次元可視化は有用です」。
また、京都に研究拠点を持つ田中教授は、“山鉾(やまほこ)”と呼ばれる祇園祭の山車にも関わってきた。「私たちの山鉾が現代の三条通りを通れるか調べてほしい」。そんな依頼が舞い込んだのは今から5年ほど前のこと。当時、京都の歴史的な山鉾である『大船鉾』が150年のブランクを経て祇園祭に復活すると決まっていた。江戸時代には三条通りを通っていた名物山鉾だ。しかし、この三条通りは道幅があまり広くない。はたして現代でも昔と同じように通れるだろうか――不安に思った保存会がアート・リサーチセンターに声をかけた。
依頼を受けてさっそく大船鉾のCGを作成、さらに三条通りの計測・可視化も行い、3DCG上で大船鉾を三条通りに置いてシミュレーション。その結果、おおむね問題なく通れるものの、一部の場所では電線と接触しかねないと分かったという。「接触リスクが高い場所は赤色でアラート表示するなどして、保存会の方々にもひと目で分かっていただけたと思います」
また、祇園祭には山鉾を方向転換させる「辻回し」と呼ばれる見せ場がある。シミュレーションでは、辻回しのときに曳き手が建物と大船鉾の間に挟まれてしまう危険があることもわかり、併せて保存会に報告。これをもとに、昔と同じように三条通りを巡行するための対策が練られている。他の山鉾の保存会からも同様のシミュレーションの要請が来ているという。
祇園祭との関わりは続き、2016年からは「八幡山」と呼ばれる山鉾のデジタルアーカイブにも取り組む。祇園祭の山鉾は毎年巡行前に組み立てられ、巡行が終わると解体されて翌年まで蔵で保管される。組立て方は記録されず、口伝で受け継がれてきた。「3次元透視可視化技術を活用すれば、山鉾を組立て、分解するまでのプロセスも可視化しアーカイブできます」。田中教授はこれを “コトの可視化”と呼ぶ。「作業プロセスの可視化は、本質的には過去から未来への時間の流れを可視化していると言えます」
時間の可視化は単に“見て面白い”コンテンツにはとどまらず、研究者による時間的分析の一助となり、より多面的な研究に貢献できるはず。田中教授はそう期待する。