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移住先の楢葉町で人をつなぎ、失われた「当たり前」をつくり直す

2020年3月14日




2011年の東日本大震災から今年(2020年)で9年。被災者ではなくとも、震災の影響で人生が変わった人は少なくない。福島県楢葉町の一般社団法人ならはみらいで働く西﨑芽衣氏もその一人だ。大学在学中にボランティアとして楢葉町に通い、一年間の休学中も楢葉町で働いていたものの、元々卒業後は都内で就職するつもりだったという(立命館大学 産業社会学部卒業)。
しかし楢葉町での暮らしを経て得た「ある感覚」を都会暮らしで忘れたくないと、楢葉への移住を決断した。今は震災前からの町民や移住者、そして復興関連事業に従事する人などのさまざまな人々をつなげて、新しい「当たり前の日常」を作るべく日々働いている。

都会にいると失ってしまう感覚がある 楢葉町への移住を決めた

ならはみらいのスタッフ(前列左から2人目が西﨑氏)

福島県浜通りの楢葉町では、東京電力福島第一原子力発電所事故に伴う避難指示を受け、全町民約8,000人が避難を強いられた。2015年9月に避難指示は解除されたものの、2020年3月現在で、震災前から暮らしていた住民や震災を機に移住してきた住民を含め、町内に住む人は約4,000人だ。
その楢葉町で真の復興を目指し、行政の出資によって2014年に設立されたのが、西﨑氏の働く「ならはみらい」だ。“まちづくり会社”と呼ばれる同社は、生活再建、コミュニティづくり、交流人口の拡大、商業・交流施設の運営などさまざまな事業で町民の生活をサポートしている。

西崎氏と福島の関わりを振り返ると、立命館大学での経験が関係している。西崎氏は震災当時、東京在住の高校3年生。震災当時の報道を見て記者になりたいと考え、1年間の浪人生活を経て立命館大学に入学した。入学後、大学の授業を通じて東日本大震災の被災地域を訪れ、当時の授業の仲間に声をかけられて「そよ風届け隊」という学生団体を立ち上げ、福島に通い続けたそうだ。現地での活動は仮設住宅での足湯を使った傾聴活動。地域の方々との出会いを通じて「被災者と支援者」の関係をこえて人と人とのつながりを大切にした活動をつづけた。

その後、ならはみらいで西﨑氏が働き始めたのは休学中の2015年のこと。臨時職員として仮設住宅の全戸訪問などに奔走した1年間だったが、同時に自らの能力の限界も感じたという。「だから卒業後は一度民間企業で働いて力をつけてから、改めて楢葉町に携わろうと思っていました」。しかし、都内の就職活動で感じた違和感によって気持ちは大きく揺れた

「面接では楢葉町での経験や学んだことについてお話しました。でもどれほど言葉を尽くしても、私の大切に思っている感覚が面接官の人に伝わったという感触を持てませんでした。一緒に働く人と、ある種の感覚をまったく共有できないのは辛いだろうなと思いました」(西﨑氏。以下同じ)

伝わらないもどかしさを覚えた感覚とは、西﨑氏が楢葉町に通い、住民と共に暮らす中で育んだものだった。

「楢葉の人は、家族や友達と過ごしたり趣味や畑仕事を楽しむ日常を、震災と原発事故で突然に奪われてしまいました。だからこそ『当たり前の日常』が本当は当たり前でなく、誰かの日々の努力によって守られていることを、表面的な言葉ではなく身に染みて知っていたんです。それは都会で育った私が元々持ち合わせておらず、楢葉町の人と接する中で少しずつ実感できていた感覚でした。都会で暮らすと、せっかく得られたその感覚をまた忘れてしまうのではないかと」

都会での暮らしに疑問を抱き楢葉町への移住を決め、ちょうど募集のあったならはみらいの求人に応募。2017年4月から新卒の職員として働き始めた。

住民主体の公共施設づくりをサポート。「要望」ではなく「想い」を募った

ならはCANvasの外観

就職以来さまざまな仕事をこなす中で特に大きかったプロジェクトが、臨時職員時代から携わっていた交流施設「みんなの交流館 ならはCANvas」の設立サポートだ。ならはCANvasは2018年にオープンした公共施設で、ならはみらいが指定管理をしている。ガラス張りの明るい室内にワークスペースやキッズスペースが置かれ、いわゆる“公民館”のイメージとは一線を画した開放的な場となっている。飲食店やスーパーが集まる商業施設「ここなら笑店街」に隣接しているため利便性も高い。地元の主婦やお年寄りが趣味のサークルやおしゃべりに集まることもあれば、フリーランスのライターや映像作家などが午前中から夕方まで仕事に励む姿も見受けられ、放課後の時間帯には地元の小・中学生が自習に立ち寄ることもあるという。

2階のワークスペースで思い思いの時間を過ごす利用者たち

老若男女、さまざまなバックグラウンドの人が集まる場を実現したならはCANvasだが、当初は現在の姿とまったく異なる形で計画が進んでいたという。

「元々はいわゆる公民館にあるような機能を中心とした建物が計画されていました。でも私は、住民が地元の建築物の計画に主体的に携わる事例があることを、ゼミを通じて知っていました。だからこそ、これだけの震災があった場所でこの規模の施設をつくるのに、行政がすべて担うのはもったいない! と思いました。震災後、楢葉町の方々は避難生活を通じてさまざまな人との出会い、気づきがあったとお話してくださいました。その経験を通じて得た知恵やアイデア、ふるさとへの強い想いを形にすることが、震災があった地域だからこそできることだと感じたんです。
その話を行政の方に伝えたところ、ゼミ教官である乾亨教授の話を聞くためにわざわざ京都を訪ねたいと言ってくださいました。その結果、住民の意見を反映した施設づくりを一からスタートすることになり、乾先生をファシリテーターとしたワークショップが9回、楢葉町主催で開かれました」

町民たちの参加したワークショップのポイントは、「要望」を聞く場ではなかったことだ。要望を募ると収拾がつかなくなるし、取捨選択が難しい。代わりに行われたのは“震災前の住民の交流はどんなものだったか”、“これからの楢葉をどうしたいか”などのテーマに沿った意見交換を通じて、町民の想いを聞くことだったという。そこで出た言葉を具体的な設計に落とし込んで、現在のならはCANvasが完成した。

実現したのは、住民の自発的な交流を可能にする設計

「みんなのリビング」と名付けられた1階のスペース

ワークショップでは「震災前は趣味のサークルでも、誰かの家に集まることが多かった」という声もあった。そこで “ならはCANvasを1軒の大きな家に”というイメージが生まれ、入り口すぐのスペースは「みんなのリビング」と名付けられた。テレビやソファ、マッサージチェアなどが置かれ、あたかもリビングのような誰でもくつろげる空間が作られたのだ。

また、多目的室には天井が無く仕切りも大きく開けられるため、通りがかりの人も室内の様子や話し声を見聞きできる。これも住民の想いを反映した設計だ。

「部屋の前にたとえば“○○教室”と掲示されていても、中の様子がわからないと一歩踏み出しにくいですよね。そこであえて外から様子がわかるようにして、参加しやすいようにしました。『天井をなくしてほしい』という要望があったわけではなくて、『誰もがどこで何をしているかわかるようにしたい』という声をもとに考えた作りです」


ちょうど取材当日も、多目的室ではドライフラワーのアレンジメント教室が行われていた。

「講師の先生は、交流館が主催する講座で一度お呼びした方です。でも今日は、町民の皆さん自身で先生や他の生徒さんに声をかけて集まったみたいです。私もこの教室があることを知らなくて、今朝びっくりしました(笑)。住民の自主的な交流や活動という、まさに期待していたことが起きつつあって本当にうれしく思います

楢葉町役場としては町民の真の「自立」も復興のキーワードだった。行政やボランティアに依存するのではなく、住民の望む日常を自身の力で実現し、自然発生的な活動があちこちで生まれる町を目指しているのだ。そして今、実際に町では震災前には無かった新しいコミュニティやサークルが登場し、新しい日常が生まれつつある。

「ならはCANvasができて最初の1年間は不安も大きかったのですが、その間に交流館で出会った人たち同士が一緒に笑い合ってる姿を見て本当にほっとしました。『ワークショップで語られた想いが少しずつ形になっている』と思えたんです」

すべての住民が交流する新しい「当たり前」を目指して

2階和室からは町民が愛するホトトギス山を一望できる。これもワークショップの意見を反映した作りだ

現在の楢葉町には震災前からの町民や西﨑氏のような移住者のほかに、建設業や原発関連事業など復興事業に関連して移り住んできた住民も相当数いる。しかし西﨑氏も、震災前からの町民などに比べると仕事で接する機会は多くないという。「食堂や居酒屋に行くと顔を合わせてお話できる機会もあるのですが……」と西﨑氏。

そこで、ならはみらいが2019年4月に立ち上げたのが「楢葉町新たなコミュニティづくり懇話会」だ。東京電力や産業廃棄物処理業者といった進出企業、地元のJAや商工会、住民代表などが一堂に会して、約2ヶ月に1回の頻度で楢葉町の新しいコミュニティ形成に向けた話し合いを行っている。

「楢葉町は震災によって人口が減り、さまざまな課題に直面しています。これからのまちづくりは元々の住民に加え、震災後の進出企業で働く方々も含めて進めていかなければならないという考えのもと、町内での交流ができる機会をつくりたいと考えました。最近は、地元のよさこい踊りや太鼓のサークルに、復興事業で働く方々が参加しているのを見かける機会も増えています。交流の場が広がらないのは、お互いの心理的な距離感という問題が大きいかもしれません。町内にはJヴィレッジやアリーナもあるので、スポーツを通じた日常的な交流なら進めていけるかなと思っています」

東日本大震災、そして原発事故で甚大な被害を受けた楢葉町。この町では今、「当たり前」の大切さを知る人々の手で、新たな日常が立ち上げられようとしている。人がつながることを一つの軸として、楢葉町は本当の復興への道を歩み続けているのだ。


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