美術館では、静かに作品と対峙するのがマナーであり、作品に触れるなんてもってのほか…、それが一般的な認識ではないだろうか。そんな常識を覆すのが「参加型アート」だ。
展示室で料理を食べ、山積みのキャンディを持ち帰り、作品の内側に身体ごと入る――。鑑賞者が関わることで、初めて作品として成立するものもある。なぜアートは、「見るもの」から「参加するもの」へと広がってきたのか。そこでは、身体や他者、社会との関係にどのような気づきが生まれるのか。参加型アートを研究・制作する、立命館大学 デザイン・アート学部の飯沼洋子准教授に聞いた。
● 「参加型アート」とは?
● 五感で感じる作品鑑賞のおもしろさ
● 違和感やストレスもアート体験のうち
● 社会のネガティブ面にも光を当ててきた歴史
● 参加型アートの楽しみ方アドバイス
美術館でパッタイを食べる?? 「参加型アート」とは
そもそも、参加型アートとはどのようなものなのだろうか。
「かつて美術鑑賞は、行政や権力者、富裕層とも深く結びついていて、鑑賞者もエリート層や知識人が中心でした。もちろん鑑賞スタイルも、『アーティストの作品を、美術館で鑑賞者が見る』という形が基本で、それは現代に到るまで基本的には変わっていないといえるでしょう。
一方、そこに疑問を投げかけ、アートをもっと広く開いていこうとする動きが、特に1960〜70年代に活発になります。美術館ではない場所で展示したり、街中で何かを行ったり、「見る」だけではない作品をつくったり。アートを制度や権力から解放しようとする試みのなかで、参加型アートも広がっていきました」(飯沼准教授、以下同じ)
そこで変わったのは、鑑賞方法だけではない。「何を作品と呼ぶのか」という、アートそのものの捉え方だった。
「参加型アートでは、そこに置かれた物だけが作品なのではありません。参加することで生まれる関係や経験、出来事そのものが作品になります。たとえば、リクリット・ティラヴァニは展示室でパッタイを振る舞い、訪れた人たちが一緒に食べ、話す時間まで作品にしました。フェリックス・ゴンザレス=トレスは、エイズで亡くなった恋人の体重と同じ重さのキャンディを積み上げ、鑑賞者が自由に持ち帰れる作品を制作しています。参加者がキャンディを取るたびに形が変わっていく。つまり、鑑賞者も作品を構成する一人になるんです」
現在では、参加するという手法は、特別なものではなくなりつつある。
「日本でも2000年代以降、地域を舞台にした芸術祭や『アートプロジェクト』が増えました。アートだけでなく、地域活性化やコミュニティ形成、教育、観光、福祉などと結びつき、その境界も曖昧になっています。触れる、つくる、食べる、誰かと一緒に何かをする。そうした参加を通じて生まれる体験まで含めて、作品として捉えるようになってきています」
匂い、温度、風——身体でしかわからないこと
飯沼准教授が、「見る」だけではないアートに関心を持ったきっかけは、自身の鑑賞体験にあった。
「私は武蔵野美術大学で油絵を学びましたが、当時は油絵だけで表現することに少し行き詰まりを感じていました。そんな頃、新潟県・越後妻有の芸術祭でクリスチャン・ボルタンスキーの《最後の教室》という作品を体験したんです。廃校になった小学校全体を展示空間にして、床には藁が敷かれ、扇風機がゆっくりと回っている。中に入った瞬間、蒸し暑さとともに、藁の匂いや風が押し寄せてきました。それまで私は、受験も含めて絵を描くことに打ち込んできましたが、そのとき初めて、五感に直接訴えかけるようなアートがあることに気づきました」
その後の留学経験も、作品の見方やつくり方を大きく広げたという。
「留学先では、油絵や彫刻といった分野ごとに学ぶのではなく、自分のテーマに合わせて、モザイクや型取りなど、さまざまなアトリエを自由に選べました。最初に表現方法を決めるのではなく、やりたい主題があって、それに合う方法を探していくんです。油絵という一つの方法を突き詰めてきた私にとって、とても新鮮でした。その後、研究対象であるリジア・クラークの作品を調べるなかで、参加型アートへの関心がさらに深まり、自分の制作にも取り入れたいと考えるようになりました」

身体で体験するからこそ、言葉や映像だけでは伝わらないものを受け取れる。飯沼准教授が注目する作品の一つが、アーティスト・栗林隆氏による、原子炉をかたどったスチームサウナだ。
「中に入ると、薬草を使った蒸気と檜の香りに包まれます。天井には鏡があり、空の写真が万華鏡のように広がっている。そこで見知らぬ来場者と一緒にサウナを体験し、最後には炉で沸かしたお湯でお茶を飲むんです。匂いや温度、触った感覚、何かを食べることは、実際に身体を通さなければわかりません。言葉だけでは理解しにくいことを感覚的に受け取れるのが、参加型アートの面白さです。五感は、言葉や文化の違いを越えて共有できる、一つの世界共通言語ともいえると思います」
参加型アートは、楽しいだけではない
作品の中に入る、触れる、食べる——。参加型アートには、アトラクションのような楽しさを感じさせるものも多い。しかし、すべての作品が心地よい体験を提供するわけではない。
「キューバ出身のアーティスト、タニア・ブルゲラの《Tatlin’s Whisper #5》では、テート・モダンの館内に本物の騎馬警官が現れ、たまたま居合わせた来場者に『左に進んでください』『こちらに集まってください』と指示します。予告のないパフォーマンスなので、来場者は何が起きているのかわからない。それでも、警官に命じられると従ってしまうんです。
街中では、自分は警察に統制される側ではないと思っている人もいるでしょう。しかし、安全だと思っていた美術館で突然指示されると、権力や社会のルールが急に自分に関わるものとして感じられます。参加型アートは、楽しく交流するだけでなく、不安や緊張を通して『この仕組みは何なのだろう』と気づかせることもあるんです」
作品への参加をためらう気持ちや、参加者によって異なる振る舞いもまた、その人や社会に潜む意識を浮かび上がらせる。
「砂山典子さんの《むせかえる世界》は、高い椅子に座った演者が巨大なスカートをまとい、来場者がその内側に潜り込む作品です。私も演者を務めたことがありますが、女性は比較的入りやすい一方で、男性には強くためらう人や、入らない人もいました。作品だとわかっていても、女性のスカートの中に入ることに抵抗を感じるのでしょう。
あるとき、5人ほどの男性が一度に入ってきたことがありました。演者からは内側の様子が見えませんし、スカートを引っ張られて身体が大きく揺れるので、私は不安を感じました。ゆっくりと配慮しながら入る人もいれば、勢いよく入る人もいる。同じ作品でも、立場や参加の仕方によって、楽しい体験にも、心理的な負担を伴う体験にもなります。参加型アートでは、そうした違いや難しさまで含めて、作品がつくられていくのだと思います」

参加型アートは、社会の何を映してきたのか
前章で紹介した作品が、不安やためらいまで生み出すのは偶然ではない。海外における参加型アートの重要な潮流には、社会から見過ごされてきた人々や問題を可視化するという役割がある。
「海外では、参加型アートや社会関与の芸術が、マイノリティのコミュニティや、政治のなかで十分に扱われず、取り残されてきた人々に光を当てる形で発展してきました。そのため、単に人が集まって楽しい時間を過ごすだけではなく、社会の仕組みや権力関係に疑問を投げかける作品も多いんです。先ほど紹介した騎馬警官の作品も、鑑賞者を実際に統制される側に置くことで、普段は意識しにくい権力の存在を身体的に感じさせています」
人と人のつながりを生み出すだけで、社会の問題に向き合ったことになるのか。参加型アートをめぐっては、そんな批判も生まれてきた。
「美術史家のクレア・ビショップは、人々が穏やかに交流するような作品だけでは、現実の社会にある問題は見えてこないと指摘しています。コミュニティのなかには、立場の違いや対立、排除、緊張もあります。それらをきれいに覆い隠すのではなく、あえて表面化させることにも、参加型アートの政治的・美的な価値があるという考え方です。参加によって人と人がつながることだけでなく、その間にある亀裂や摩擦に気づかせることも、アートの役割なんですね」

一方、日本では2000年代以降、参加型の取り組みが地域活性化や観光などと結びついて広がってきた。参加の仕掛けや体験の楽しさが目に入りやすい一方、その背景にある社会への問いかけは、見えにくくなることもある。
「日本では、地域を舞台にした芸術祭やアートプロジェクトとして発展し、地域活性化やコミュニティ形成、教育、観光、福祉などの役割を担ってきました。それ自体が悪いというわけではありません。ただ、海外の参加型アートとは、成り立ちや目的に少し温度差があります。
参加型アートを見るときには、参加できる仕掛けがあるかどうかだけでなく、どのような状況が設計され、参加者がどう位置づけられているのか、そこでどんな関係や経験、出来事が生まれているのかに注目することが大切です。そこを見ると、その作品が社会に対して何を問いかけているのかも、少しずつ見えてくると思います」
「わからない」「嫌い」も、参加の始まり
社会への問いまで込められた現代アートを前にすると、「正しく理解しなければ」と身構えてしまう人もいるだろう。しかし飯沼准教授は、“わからなさ”も含めて、自分に生まれた反応を受け止めればよいと話す。
「アートには決まった答えがないので、そこに不安を感じる人もいると思います。作品を見て、『何だこれは』『よくわからない』と、何かを投げつけられたように感じることもあるでしょう。でも、わからなくても、嫌いでもいいんです。まずは、作品から投げかけられたものに対して、自分が何かを感じる。それも大切な参加の仕方だと思います。
作品について考えたり、意味を探したりすることはあっても、あらかじめ用意された正解にたどり着く必要はありません。自分がどう感じたのかを確かめるところから、アートとの関わりは始まります」
その感覚を誰かと交わすことで、自分自身について気づくこともある。
「同じ作品を見れば、ほかの人も同じように感じていると思いがちですが、実際に話してみると、まったく違う意見が出てきます。それがアートの面白さです。他者の感じ方を知ることで、自分は何に惹かれ、何に抵抗を感じる人間なのかも見えてくる。作品の中に入ったり、何かを動かしたりすることだけが参加なのではなく、作品を受け取って、自分なりに考えることも参加なんです」
自分の感覚を確かめるという行為は、AIをはじめとするテクノロジーとの関係を考えるうえでも、一つの手がかりになりそうだ。
「学生と話していると、『AIに負けない人間になりたい』と言う人がいて、少し驚きました。AIに頼り切るのではなく、警戒しながら距離を取ろうとしている学生もいるんです。AIがなくなることはないでしょうから、飲み込まれるのではなく、自分にとってよい形で使えるようになることが大切だと思います。
一方で、テクノロジーは以前から、人間の身体を拡張するものとして考えられてきました。ですから、AIを身体の延長として捉えることも、それほど不思議ではありません。人間と、人間ではないものを対立させるだけでなく、両者がどうつながるのか。参加型アートも、その接点を探るきっかけになり得ると考えています」
参加型アートを楽しむために、専門知識や模範解答は必要ない。作品に触れて、楽しさや違和感、時にはためらいを覚えたとき、自分はなぜそう感じたのか。そこに少し立ち止まってみることから、参加は始まる。情報や表現が瞬時に生み出される時代だからこそ、自分の身体に生じた反応に耳を澄ませることは、他者や社会、そして新しい技術との関係を捉え直す、小さな入口になるのかもしれない。

飯沼洋子
1985年大阪府生まれ、神奈川県育ち。武蔵野美術大学で油画を学び、在学中にパリ国立高等美術学校へ交換留学。その後、渡仏し、ブールジュ国立高等芸術学校およびパリ第一大学パンテオン・ソルボンヌにて造形表現と美術理論を学ぶ。アーティスト活動と並行して、京都大学大学院人間・環境学研究科にて、ブラジル人アーティスト、リジア・クラークの作品と思想に関する研究を行い、博士号を取得。2026年より立命館大学デザイン・アート学部に着任。現在は、芸術実践を継続しながら、現代美術を中心とした研究に取り組む。





