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クラシックコンサートは賑やかな“音楽会”の風情だった? クラシックファンなら知っておきたい音楽知識

2023年8月3日


クラシックコンサートは賑やかな“音楽会”の風情だった? クラシックファンなら知っておきたい音楽知識

クラシック音楽のコンサートといえば、静寂に包まれたホールで壮大な演奏が繰り広げられるイメージを持つ人が多いだろう。現代におけるクラシックコンサートは“そのような場”であることが前提だが、実は聴衆が静寂に至るまでには、長い時間を要した…!?
歴史社会学的な観点から音楽活動や音楽芸術観の変遷を研究している、立命館大学文学部の宮本直美教授が、クラシック音楽の誕生と変遷を興味深い音楽知識満載で紹介してくれた。Apple Music Classical でクラシック音楽に目覚めた人も必見だ。

〈この記事のポイント〉
● オペラとクラシックの位置付けとは?
● コンサート会場が“静かになった”のはいつ? なぜ?
● ドイツはいかにしてクラシック王国になったか
● なぜ「クラシック」というジャンル名が生まれた?
● やはり偉大なベートーヴェン

クラシック音楽はオペラの“オマケ”!? インストゥルメンタルは今も昔もマニア向け

クラシック音楽の誕生を語る上では、オペラを避けて通ることはできない。なぜなら、クラシック音楽自体がオペラから派生してきたものだからなのだという。

18世紀までは、音楽といえばオペラでした。声楽、つまり歌が非常に重要であり、歌があって初めて認められるという価値観がありました。音楽の主役はイタリア主導のオペラであり、礼拝における賛美歌でした。器楽はあくまでも脇役だったのです。
現代でも、音楽コンテンツの主流が歌であることは変わりませんよね。歌詞がない音響(サウンド)を聴くという行為はハードルが高く、ジャズやフュージョンなどインストルメンタルだけを聴ける人はマニアというか、どちらかといえば少数派だと思います。当時のヨーロッパでもそれは同じでした」(宮本教授、以下同じ)

オペラの前奏や合間のBGMが徐々に役割を広げ、交響曲に

オペラの前奏や合間のBGMが徐々に役割を広げ、交響曲に

「そもそもオペラにはいろいろな要素が入っていました。劇中にはバレエのシーンもあり、バレエシーンは気晴らしのようなものでした。
器楽は、幕開きや幕間にBGM的に演奏されていました。オペラを見るために劇場に行って、そこで体験できることの一部に器楽があったわけです。現在では『序曲』となっているようなセクションも、最初は短い1曲で、劇場に集まっている人たちに開演を知らせる合図に過ぎませんでした。
その役割が少しずつ膨らんできて、3楽章制のシンフォニアの『序曲』に拡大していったと考えられます

すでに器楽として独立していた協奏曲と共に、オペラの合間に演奏される器楽のメロディが、次第に人々の耳に残るようになり、それがクラシックコンサートの興行的な土台をつくってきたのだ。

かつて、コンサート会場は騒々しかった

「オペラは総合的な娯楽の場であり、劇場にもさまざまな階層の人々が来ることになります。特にイタリアの都市で行われていたオペラでは、貴族も観に来ますし、一般の市民も同じオペラを鑑賞しました。
クラシックと同様、オペラの観劇も現在では静寂であることが当たり前ですが、当時はそうではありませんでした。観客は身振りでも発声でも自由に振舞い、現在のスポーツ観戦のようだったと表現する人もいます。そうした鑑賞態度はオペラでもコンサートでも似たようなものでした」

現代のクラシックやオペラの鑑賞からは考えられないような世界だが、当時のコンサートはあまり“お行儀のよい”ものではなかったようだ。では、それが静寂を手に入れるまでにどのような変遷があったのだろうか。

「コンサート=静寂」は19世紀になってから! 背景にあった教養人たちの意識変化

「コンサート=静寂」は19世紀になってから! 背景にあった教養人たちの意識変化

クラシックのコンサートが“真面目に”聴かれるようになった背景には、教養市民層や知識人たちの価値観が大きく影響しています。
当時彼らの間に流行した教養主義の特徴でもありますが、『部分が全体に寄与する』というような思想に関連して、『音楽も一部をつまみ食いするのではなくて、全体像を受け取るためには、まじめに集中して聴くべきだ』という考え方が出てきます。
そうすると、『1楽章から4楽章まで並べたプログラムにしなければいけないし、おしゃべりして聴くようなものではない』ということになり、音楽に集中する動きが一般的になってきました。
特にドイツでは宮廷文化に対する対抗意識もあり、音楽をまじめに聴いていなかった貴族に対して教養ある市民層は文化を尊重しようという意識も芽生えていたようです」

また、宮本教授は「19世紀に入って音楽雑誌、批評活動といった、ジャーナリズムが花開いて、筆の力が『言葉では言い表せないもの』に意味と価値をもたらしていったこともクラシック音楽の流行に大きな影響を与えた」と解説する。
一見お上品に感じる宮廷文化からではなく、市民の知的な活動によって、音楽に静寂がもたらされたことは、実に興味深い。

器楽コンサートはオペラの器楽奏者の副収入でもあった

一方、器楽演奏者の活動からは、クラシック音楽の存在感が強まる背景が、少し違った切り口から浮き彫りになってくる。

「器楽のみの音楽が受け入れられるにつれて、普段はオペラの伴奏をしている器楽奏者たちの興行が増えてきました。オペラ公演がない日に、オペラと同じ場所を使って、空き日程を活用したコンサートが行われたのです。
このようなコンサートは器楽奏者たちの重要な副収入にもなりました。ロンドンの楽団である指揮者が「外部出演禁止」というルールを設けた際、楽団員たちからの大ブーイングでリコール活動が起こり、その指揮者が追い出されたというケースもあったほどです。
ちなみに、ギャラが一番良かった都市はロンドンでした。ロンドンはヨーロッパの中で産業化・市場化が早く進んだ国です。ヨーロッパ中の音楽家が、成功するためにロンドンやパリなどの都市に集まるようになります」

オペラ後進国だったドイツが「クラシック音楽」の国になった

17〜18世紀のヨーロッパで重要な音楽ジャンルはオペラであった。オペラといえばイタリアの印象だが、クラシックというとドイツのイメージが非常に強い。その理由とは?

「18世紀まではヨーロッパの音楽の先進国はイタリア・フランスであり、ドイツは音楽後進国という位置付けでした。声楽においてドイツ語の地位は低かったといえます。けれどもその間にも、徐々に器楽における演奏テクニックが積み上がっていきました。
バッハも器楽曲を育んできた経緯があります。そして、ベートーヴェンの交響曲が出てきた頃、前述の知識人たちの思想に乗って『器楽こそ言葉の力を借りない音楽の最も純粋な形なのだ』という主張が大きく花開きました。
そうなると、今まで器楽の技術を育ててきたのはドイツなので、逆に『音楽の最も純粋な形である交響曲はドイツ人にしか書けない』というブランドイメージすら生まれてきます」

器楽の位置付け同様、市民の知的活動と結びついてヨーロッパ音楽界での地位を一気に高めたのがドイツであった。

「クラシック」という言葉はベートーヴェンら3人への敬意から広まった

「クラシック」という言葉はベートーヴェンら3人への敬意から広まった

「19世紀前半に一部の人たちが『交響曲を聴け』と言い出したとき、その対象は、ベートーヴェン・ハイドン・モーツァルトの交響曲でした。中でも特にベートーヴェンはその中心だったといえます。
もちろんほかにも多くの交響曲がありましたが、『聴くべき』とされた交響曲は、ほぼその3人に絞られていました。曲が難解で分かりにくいという問題は常にありましたが、逆にそれが教養主義の思想とリンクして『分からないからこそ何回も聴くべきなのだ』というロジックになっていきます。
『クラシック音楽』という用語は1830〜1840年代に定着し始めます。クラシックとは欧米語では古典古代を表す言葉ですが、偉大であると思われているものに対して『価値を表す表現』として特定の過去の音楽に付けられるようになりました。そしてベートーヴェンに代表されるような音楽を『クラシック』と呼称するようになったのです。
当時のドイツでは古代ギリシアの文献を丹念に読むことが教養の基本でした。ベートーヴェンの交響曲も、クラシックと名付けられることで非常に価値のある音楽となり、同時にそれを何回も聴いて理解するという習慣を生み出しました。交響曲は特にベートーヴェン、ハイドン、モーツァルトに絞られたという点が、クラシックという言葉を定着させる上では非常に重要だったと思います」

クラシックというジャンル名は、ある意味「ブランド価値」として与えられたものだというのは、あまり知られていない事実ではないだろうか。
宮本教授は「交響曲という音楽ジャンル、あるいは器楽全般を広めて興行的にも定着させることに最も大きな役割を担ったのはベートーヴェン」だと語る。クラシックの誕生から流行への変遷を俯瞰するとき、誰もが認めるクラシックの巨匠・ベートーヴェンの存在感は、さらに大きく感じられる。

立命館大学文学部 宮本直美教授

宮本直美

専門は音楽社会学・文化社会学。著書に『コンサートという文化装置――交響曲とオペラのヨーロッパ近代――』(岩波書店,2016年)、『宝塚ファンの社会学――スターは劇場の外で作られる――』(青弓社,2011年)、『ミュージカルの歴史――なぜ突然歌いだすのか』(中公新書、2022年)など。

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