年間4000万人の訪日外国人客を迎えるとされる2020年の日本。さまざまな「インバウンド対応」が求められているなかでも、とりわけ急務とされるのが食の環境整備だ。宗教による食の禁忌の中でも、近年注目を集めているのは、イスラームを信仰する人々(ムスリム)の禁忌である。
イスラーム法において許された物事を「ハラール」という。第三者機関が商品やサービスを監査して認証するハラール認証制度が注目されているが、ムスリムはハラール認証されたものしか食べないわけではない。
ムスリムの訪日旅行者数は年々増加しており、2020年には約140万人、訪日旅行者全体の3%以上を占めるというデータもあり、特に外食ビジネスの現場においてムスリム対応やハラール食への対策は急務となっている。異文化の人々が満足のゆく食事を楽しめる社会を築くためには何が必要なのか。提供者・消費者双方の視点から考える。
「思い込み」で作られたメニューがムスリムを混乱させる
「ムスリムの友人や知人と外食するときに意外に便利なのは、実は居酒屋なんです」
文化人類学者としてインドネシア共和国で「食」についてフィールドワークを行い、ハラール研究でも多くの実績を持つ立命館大学食マネジメント学部の阿良田麻里子教授は、日本でのムスリムの食事情について、最初に興味深い事例を教えてくれた。
「ハラールメニューのある店なら安心ですが、そんな店は数が限られていて、行動が制限されてしまいます。また、現在日本のハラール料理の多くは予約の必要で高価な和食コースやエスニック料理なので、気軽に本場日本の食体験をしたいという人には不向きです。
けれども、ムスリムの中には、ハラールを謳った食べ物でなくても、自分の判断で、豚以外なら食べる、シーフードなら食べるという人は大勢います。そういう人をお連れするのに、居酒屋は最適なのです。手ごろな価格のメニューが多彩で、単品で注文できるからです」
「まずお客様に、禁忌について気にしている点や好みを訊ねて、条件に合うものを注文します。実物がきたら材料や料理法を説明して試してもらい、好みのものを追加すればよいのです。しかし、現状では、外国人旅行客だけで居酒屋に挑戦するのは、なかなか難しいでしょう。料理名や写真だけでは、材料としてなにが入っているのかわからないからです」
ハラール認証がなくても、消費者が個人のレベルでハラールと判断して飲食できる物は、たくさんある。しかし、食への禁忌が極めて少ない日本人が生半可な知識で「ハラール対応」をしようとすると、気づかずに禁忌の物を出したり、逆に過剰に反応しすぎて本人が食べてもいいと思っているものまで勝手に取り除いたりしてしまうことがある。よかれと思った対応が、逆にムスリムの人々を混乱させることになりかねない。
ハラール(合法)とハラーム(非合法)を区別するための情報が必要
では、ムスリム対応が急がれる外食ビジネスの現場において、どのようなアプローチが近道といえるのだろうか。阿良田教授は「情報開示」と「メニュー開発」を挙げる。
「同じ宗教の信徒でも、禁忌に対する態度は人それぞれ。地域差や個人差も大きいのです。ですから、ムスリムの消費者本人に、食べられるかどうか判断してもらうことが基本です。食べ物の好みも多様ですから、『ハラール対応メニューはこれ』と1種類のメニューしかないと、極めて限定的な効果しか期待できません」
「ハラールという意味で、多くのムスリムがチェックするポイントが、まずなんといっても豚由来の物(豚肉、ハム、ベーコン、ソーセージ、ラードなど)が入っていないか。次に肉がハラール肉であるか、そして酒やみりんを使っていないかといった情報です。
風味付け程度の材料は、普通は料理名に書かないし、写真を見てもわかりません。宗教的禁忌をもつ人は、アレルギーと同様に、「入っていない」ことを確認する必要があります。ですから、ごく少量でも肉や酒を使ったら、ピクトグラムや禁忌食材表などで情報を開示してほしいのです。また、逆に豚や酒を『入れていない』ことを積極的に表示する『ポークフリー』『アルコールフリー』表示をしたり、そういった料理を集めた抜き刷りメニューを用意したりすれば、選択肢がはっきりして選びやすくなり、接客に要する時間も減ります」
では、「メニュー開発」についてはどうか。
「ハラーム食材の表示と同時にやっていただきたいのが、『特別メニューを頼まなくても食べられるものを増やす』取り組みです。普段のメニューの中に、細かいことを気にしないお客様なら食べられると判断できるようなものを増やしてほしいのです。
初歩的なメニュー開発としては、
●塩ゆで、塩焼きのようなシンプルなメニューを複数作り、単品で注文できるようにする
●何にでもハムやベーコンを入れない
●禁忌になりやすい食材は、混ぜ込むのではなくトッピングにして選べるようにする
●ハラール肉を使用する
などの取り組みをするだけで、多くのムスリムに対応することができます。また、世界各地の味の嗜好に合わせて、テーブル調味料を複数用意するといいでしょう。東南アジアの方には、チリソース、スイートチリなどが定番です。一味や七味、柚子胡椒もいいですね」
「ハラール>ハラール認証」という理解が“食のおもてなし”を豊かにする
出典:阿良田2018『食のハラール入門 今日からできるムスリム対応』講談社89頁
ハラールに対応した食材を提供するための指標のひとつに「ハラール認証」がある。ハラール認証とは、イスラーム法に則った商品やサービスであることを、第三者機関が認証するものだ。
例えば牛や鶏の肉でも、ハラールであるためには「成人ムスリムが祈りの章句を唱えて、鋭利な刃物で喉を切り屠殺」しなければならない。知己のムスリムが屠畜した肉には認証など不要だが、非ムスリムの絡む商売や国際的な取引では、ハラール認証が要求されることが多い。しかし、認証制度には課題も少なくないと阿良田教授は指摘する。
「ハラール認証には国際的な統一規格がなく、数多くの認証機関が存在しています。取引先によって、『この認証はOKでも、こちらの認証はNG』ということもあります。また、外食施設に関しては、『ハラールレストラン』『ハラール調理師認定』『ハラールフレンドリー認証』『ムスリムフレンドリー認証』などといった用語が乱立し、提供者・消費者双方が混乱する場面も見られます。
すべてのムスリムに受けいれられるものを目指して、もっとも厳しい規準を満たそうとすると、高コスト高価格になり、結局誰にも喜ばれないものになりかねません」
「実際には、個々人のムスリム消費者がハラールだと判断する食べ物は、認証されているものよりもずっと豊かで、たくさんあるのです。ですから、提供側の飲食店としても、ハラール認証に頼りすぎず、先ほど紹介した『情報開示』『自分で選択できるメニュー開発』を入り口に、ムスリムの人々とコミュニケーションを取りながら、幅広い対応を模索していくことが求められます」
ムスリムは極めて多様で、宗派や法学派によっても、人によっても禁忌の解釈が異なる上に、食の嗜好も多様である。「全員が満足できるメニュー」は存在しないといってもいい。阿良田教授の「双方向のコミュニケーションとトライ&エラーで商品開発することが重要」という言葉には、ムスリムの人々だけでなく、世界のさまざまな国からの旅行者を“食でおもてなし” するためのヒントがある。