京都を旅するとき、その歴史的遺産や文化とともに、京都の味覚もまた旅行者の心を躍らせてくれる楽しみのひとつだろう。繊細な盛り付けや上品な味、京料理の名店に足を運ぶのもいい。しかし、ここでひとつ提案がある。京都の街角に点在する「京都食堂」を、ぜひ旅の目的地にしてほしいのだ。
その理由は、今回の対談で明らかになる。料理人・飲食店プロデューサー、そして文筆家としても活躍する稲田俊輔さんと、『京都食堂探究』の著者のひとりでもある立命館大学文学部の加藤政洋教授が、京都食堂について語り尽くした。
● きつねとたぬき 京都・大阪・東京ではまったく違う!
● 稲田氏が学生時代に驚いた、京都食堂の“出汁”のうまさ
● なぜ、京都のきつねは甘辛くないのか? 鯨との意外なカンケイ
● 「しっぽく」の世界観、そして「卵とじ」の心意気
● 京都食堂と京料理、本質的には何も変わらない!
大阪に「たぬきうどん」はない!? 『京都食堂探究』が示した関西麺・丼文化の奥深さ
突然だが、あなたにとって「きつねうどん」とは、どのような食べ物だろうか。ここで1枚の写真を見ていただきたい。
写っているのは「京都のきつねうどん」である。
まずは京都食堂の定番メニューから、京都そして関西圏の興味深い麺文化について『京都食堂探究』の著者で立命館大学文学部の加藤政洋教授に解説いただこう。
加藤「関東の読者の方は、『きつねうどん』といえば、大きな油揚げの載ったうどんを想像するでしょうが、京都ではきざみの油揚げに九条ネギというのが基本スタイルとなります。ちなみに大阪でも油揚げは刻まずに大きなままとなります。
そして、おもしろいのは『たぬき』です。京都、大阪、東京の3都を比べるとこんな表ができます。
実は関西では、『たぬきそば・うどん』を注文しても、天かすが載った麺は出てきません。現代では関東風の呼び方のメニューもありますが、もとはこの言い方だったのです。ちなみに、関西で天かすのそば・うどんを食べたいときは、『ハイカラ』となります。また、東京の『たぬき』の語源は、『天ぷらのタネ抜き』から来たと言う説が有力です」
若干頭が混乱してくる「きつね/たぬき」にまつわるトリビアだが、これ以外にも京都、そして関西圏の食文化には大いなる謎と魅力が詰まっている。詳しくは『京都食堂探究』をご覧いただくとして、この本に強い興味を持った方がいる。
料理人・飲食店プロデューサーの稲田俊輔さんである。学生時代を京都で過ごした稲田氏は、京都食堂への造詣も深い。ここからは、加藤教授と稲田氏の、京都食堂をめぐる対談をお届けしよう。
大学時代に味わった“出汁のおいしさ” 出汁で炊いた肉丼の思い出
稲田「加藤先生の『京都食堂探究』を読んで、いくつも目から鱗が落ちるような、膝を打つような発見や気づきがありました。非常に興味深く読ませていただきました!」
加藤「ありがとうございます。稲田さんは学生時代を京都で過ごされたということですが、当時は京都の食堂にどのような印象をお持ちでしたか?」
稲田「京都に来て、何の気なしに麺類食堂的なところに入りまして、そこで初めて食べたのがきつねうどんで、それが『刻みきつね』だったわけですね。すごく感激しまして、その理由の一つは、とにかく出汁が美味しいということでした。
当時、平安神宮の敷地内にある飲食店でアルバイトをしていたとき、最初に食べたまかないが肉丼だったんですよ。肉丼といえば、甘辛い味付けを想像するじゃないですか。でもそこはうどんのつゆをそのままとって、肉をうどんのつゆで炊いてご飯にかけるスタイルでした。『絶対に味薄いだろう!』って思ったんですけど、それで十分な美味しさがあって…。それも出汁の美味しさを印象付ける衝撃的な出来事でしたね」
加藤「その情景が目に浮かぶようなエピソードですね。私自身は京都に来て19年になるんですが、そういう気づきを全くないまま時間を無駄に過ごしてしまったんです(笑)。
もちろん京都の食堂で食べる機会は多いのですが、何の感動もなくずっと来てしまって、当たり前のようにそこにあるという…。酒呑みなのでやはり江戸の蕎麦屋と比べると物足りなさの方が先に立ってしまっていたんですね。ところが、そこにコロナ禍がやってきて、お店でお酒が出なくなってしまった。呑みではなく、食べることを楽しむしかなくなったことで、京都食堂の再発見につながりました」
『京都食堂探究』で油揚げの謎が解けた 大阪の揚げはなぜ甘辛いのか?
稲田「僕、実は子供の頃から甘いきつねがずっと苦手なんですが、油揚げ自体は大好きだったんですね。だから、京都の甘くない刻みきつねの『きつねうどん』は、自分にとって夢のようなきつねうどんだと、その時にはっきり感じたんです。
京都のきつねはきざみ揚げでも、やや厚めでしっかりしている。それが美味しい出汁と相まって、なんとなくそれまで持っていた『京料理』のイメージとすごくリンクしました」
加藤「揚げの話は『京都食堂探究』でも少し触れましたが、大阪のきつねは昔、鯨油で揚げていたので臭みが強かったそうです。それもあって、しっかり油抜きした上で、甘辛く濃い味付けのきつねが生まれてきた。
一方で、京都は鯨油文化圏の外にありました。近隣で上質な菜種油がとれたこともあり、臭みがなく、油抜きしなくてもすぐに使えるような油揚げが主流だったと考えられます。そんな背景も、稲田さん好みの『きつねうどん』が生まれる理由のひとつになったというのはおもしろいですね」
稲田「揚げ油の話も、本当にびっくりしました! 鯨油なのか菜種油なのかで、ここまで違う味になるわけですから。
京都と大阪は地理的には非常に近いですが、味には大きな違いがあると思っています。どちらも一言で言えば『あっさりした、淡い色のつゆ』という共通点はありますが、逆に言えばそこしか共通点がないんじゃないかとも感じています」
加藤「関西はやっぱり広くて、神戸あたりも違いますし、奈良とかになると伊勢湾系の文化も入ってきたりしますね。その中でも、京都というのは『文化の入り方』が全く違うと思うんです。大阪は湾に向かって開かれている都市であるのに対して、京都って日本海側ともつながってきます。
鯨油の文化圏という点では、『おでん』もおもしろいですね。和歌山あたりから関西では鯨の皮下脂肪を鯨油で揚げた『コロ』という具が定番ですが、京都ではまず入らないですから」
京都食堂の上おき(=具)を象徴する 華麗なる「しっぽく」
記事冒頭では「きつね・たぬき」について概観したが、ここでは、京都食堂における「麺と丼」についての基本をお伝えしておきたい。以下は、麺類と丼物における「上おき」つまり、上に載せられる具材についての関係性をまとめたものだ。
京都独特のメニューとしては「衣笠そば/うどん」「衣笠丼」がある。これは、きざみの油揚げと九条ネギを卵とじにしたもので、関東圏の人にとっては珍しいだろう。
そして、『京都食堂探究』でも深く考察されているのが「しっぽく」である。しっぽくは、椎茸、かまぼこ、ほうれんそう、卵焼き、花麩などを麺の上に並べたもので、関東における「おかめそば・うどん」に近いといえる。
しっぽくが卵でとじられると「かやくとじうどん・そば」となり、さらにそれが丼になると「木の葉丼」と呼び名が変わる。それをふまえた上で、再び二人の対談に戻ろう。
加藤「しっぽくは、長崎の卓袱(しっぽく)料理に由来するというのが定説です。卓袱と呼ばれる円形テーブルに、大皿の料理が並び、盛られた料理をそれぞれ自分の箸でとって食べるスタイルなのですが、それを麺や丼の上で表現したのが京都食堂の『しっぽく』といえます。
元々は大人数で卓を囲む文化ですが、椀や丼の上の小さな世界に再現しているという点で実に見事なメニューだと思います」
稲田「僕が『京都食堂探究』で一番膝を打ったのは、『衣笠丼には海苔が載ってないけど、木の葉丼には海苔が載ることが多い』という謎が解けたことでした。木の葉丼はしっぽくの活用形であって、しっぽくに海苔が入るお店もあるからなんですよね!これで謎が解けて、すごくスッキリしました。これ、日本中で誰も気づいてないんじゃないか? って思ったくらいでしたよ(笑)」
卵は京都の心意気? 卵でとじれば“間違いない”
稲田「京都では麺の上おきはそのまま丼メニューになるんですよね。そして、その上おきが卵で閉じられると、『ワンランクアップします』みたいなのはすごくシステマティックだなぁと学生の時から感じていました。
学生時代、平安神宮の食堂でアルバイトをしていたときに、お客さんが天丼を頼んだんですね。すると、ご亭主が『やめとき!天とじ丼にしよし』みたいに、卵とじの方に誘導しようとするんですよ。とじないメニューも書いてあるんだけど、 頼ませてもらえない(笑)。その光景を、まざまざと思い出しましたね。 卵でとじれば間違いないという確信があるんでしょう」
加藤「京都の食堂は、卵とじを本当に綺麗に盛り付けますよね。卵とじで“蓋をする”ということに、すごくこだわりを持っていると感じます」
京料理の名店も本質的には同じ その完成度の高さが京都食堂のすごさ
稲田「しっぽくに代表されるような、見た目にも美しく、繊細な味付けのメニューは、ある意味で完全に京料理なんですよね。素材の使い方から、出汁の引き方からすべてが。一人2万円とるような京料理のお店で出されるようなレベルの味が、町の食堂で提供され、多少値上げしたとはいえ800円前後で食べられるのが、京都食堂のすごさだと思います。
これは冗談でもなんでもなくて、京都食堂に出てるメニューって、本質的には京料理と何も違わないですからね。違うのはしつらえとシチュエーションだけなんです」
加藤「そのあたりは他の都市の食堂文化と大きく違うところかもしれませんね。京都以外は、味や素材レベルである意味“棲み分け”ができているともいえる。それが京都では、庶民レベルのお店ですでに完成されていて、それが長い間提供されてきたわけです。
そんな背景を知っていただければ、京都食堂をもっと楽しんでもらえるのではないかと思っています」
ある意味“大盤振る舞い”ともいえるほどの、京都食堂の完成度。そのメニューの奥深さにせまるほどに、その魅力はますます大きく感じられる。
一方、その成り立ちゆえに、チェーン店やファストフードが席巻する現代においては、その存続に黄信号が灯っている状況も無視できない。続くインタビュー後編では、そんな京都食堂の未来について、愛深き議論をお届けしたい。
稲田俊輔
料理人・文筆家。南インド料理専門店エリックサウスでは総料理長を務める他、様々なジャンルの飲食店をプロデュース。レシピ本を始め、エッセイ、小説など食にまつわる著作も多数。近著は『料理人という仕事』(筑摩書房)、『現代調理道具論』(講談社)。
加藤政洋
1972年長野県生まれ。専門は文化・歴史・社会地理学。著書に『おいしい京都学 料理屋文化の歴史地理』(河角直美と共著、ミネルヴァ書房)、『酒場の京都学』(ミネルヴァ書房)、『大阪 都市の記憶を掘り起こす』(ちくま新書)などがある。現在、『京都食堂探究』の続二編を準備中。近年は友人や学生たちとともに、沖縄の都市誌も探究しています。旅するがちまやー(沖縄の言葉で「食いしん坊」を意味します)。