日中戦争から太平洋戦争に至る戦時期の日本というと、イメージするのは統制経済や節約、清貧といった世相ではないだろうか。女性たちはまっすぐな髪を後ろで束ねたモンペ姿、「お国のために」と禁欲的な毎日を送っている。映画やドラマでも、そのようなステレオタイプが語られてきたように思える。
しかし、実際には戦時中にもパーマが大流行していた。「パーマネント禁止令」が出る中でも女性たちはパーマをかけ、洋装を取り入れていた。一般的な戦時中のイメージを覆す当時の女性たちのリアルとは?
「パーマネント禁止」でも、パーマ店は早朝から深夜まで大盛況
「パーマネント禁止令」は、日中戦争が始まった1937年の国民精神総動員中央連盟の委員会で可決された。また、モンペも同じ頃に盛んに行われるようになった地域の消火訓練などで女性たちが自主的に身に付けるようになり、“戦時にふさわしい服装”として公的なものになっていった。
私たちはこれまで、そのような“国の決定”によって、戦時体制における監視と抑圧が社会に行き渡ったように捉えてきた。
しかし、戦時下の日常を伝える多くの文献を調査した立命館大学 政策科学部の飯田未希教授は、著書の『非国民な女たち(中央公論新社)』で、当時の女性たちのまったく違う現状を明らかにした。
「戦時にふさわしい髪型や服装が公的に決定されたからと言って、それは、多くの女性たちが決定に従ったということを必ずしも意味しませんでした。
実際には、私たちが想像するよりもずっと多くの女性たちが戦争中にもパーマをかけ、スカートをはいておしゃれを追求していたことがわかってきました。それは、太平洋戦争が激しくなり、“贅沢は敵”という生活を強いられていた時期に至っても変わることはありません」(飯田教授、以下同じ)
例えば、1943年。歴史年表を見れば学徒出陣などが行われた年であり、いよいよ日本が窮地に立たされつつある時代といえる。
そんな中でも、大都市ではパーマネント機を10台以上も設置した大規模美容院が出現しており、順番待ちをする女性たちが列をなしていたという。
「繰り返し何度もパーマネント禁止令が出されたのは、それらの禁止令が実効性を伴っていなかったからだといえます。その後、電力制限令が出されると、電気を使わずに木炭でパーマをかける『木炭パーマ』と呼ばれる道具が、日本各地で出回ります。中には、防空壕の中でパーマをかけたという例もあるほどです」
私たちが持つ「戦時中のステレオタイプ」となぜ違うのか?
パーマネントの大流行は、単に国の方針が女性たちに“無視されていた”ために起こったわけではない。パーマをかけた女性たちは「社会問題」と位置付けられ、公衆の面前で罵倒されたり、唾を吐きかけられるような事件も起こっている。しかし、多くの女性たちは、自らが“美しい”と思えるパーマを、我慢することはしなかったのである。
それにしても、このような女性たちがいたことが、驚くほどに現在の私たちに伝わっていないのはなぜだろうか?
「戦時期を語る場合、必然的に戦後からの視点になりがちです。1970年代に空襲の記録や証言などが注目されるようになりますが、そこで出てくるのはどうしても『戦争がこんなに恐ろしいものだとは知らなかった』『自分たちは騙されていた』『挙げ句の果てに爆弾が落ちてきた』といった、“一番ひどい体験”なんです」
確かに、命に関わるインパクトの強い体験を前にすると、パーマネントを諦めなかった女性たちの日常は、一歩奥に位置付けられてしまうのはやむを得ないことかもしれない。
一方で、パーマネントを作り出していた美容師たちも、当時のことをあまり公には語ってこなかった。
「パーマネントを担っていた美容師たちは戦時中、『禁止されているパーマネントを行う人』であり、バッシングを受けた側の人々でした。彼女、彼らは、戦後も地域で商売を続けなければならないわけですから、『あなたたち、戦時中は散々私たちを叩いたわよね』という声の上げ方はできません。表だってそんなことを言えば、地域で商売ができなくなりますから。そのような側面も、パーマネントをめぐる当時の実際の様子が伝わっていない原因のひとつだと考えています」
ただ、美容の世界は業界でのつながりがとても強いので、1960年代半ばくらいまでは、当時の苦労などが記事として出てくるという。戦時という特殊な状況の中で、自らの商売と、女性たちのニーズ、そして美容への情熱を守り続けた美容師たちのエピソードもまた、『非国民な女たち』の読みどころのひとつだ。
社会のバッシングの中で女性たちが守ってきた「美意識」
『非国民な女たち』を読むと、私たちが戦時中の国民生活に持っていたイメージが大きく覆される思いがする。しかし一方で、それは当時の人々への“親近感”であり、垣間見える人間らしさへの“安心感”でもある。
「従来の戦時中の社会のイメージは、国民みんなが『洗脳されているような世界』だったかもしれません。しかし、新聞の投書などには、女性たちからの『封建時代に連れ戻すな』といったような発言も見られます」と飯田教授が指摘するように、実際には、私たちが感じてきた以上に“自由な発言”も行われていたことが伺える。
戦後、女性たちの間でパーマネントが大流行し、急激に洋装化が進んだことは、従来「アメリカ化」「占領軍の文化的影響」という言葉で説明されてきた。しかし、飯田教授は次のように指摘する。
「実際には、戦時期を通じてかなり多くの女性たちがパーマネントや洋装を求め続けていました。女性たち自身が戦時を通じて求め続けたものであり、それによって彼女たちは、自らの感覚、美意識を守ってきたともいえるのではないでしょうか」
戦時中、「国のために」という言葉だけでは捉えることのできない、美意識にこだわり続ける人々が、日本には確かに存在していた。日本人は、ただ単に“国家に従順な市民”として括られる人々ではなかった。
今あらためて、私たちが当時に対して持っている先入観や固定観念を、見直すべき時が来ているのではないだろうか。
飯田未希
大阪大学大学院で英文学を研究した後、State University of New York at Buffalo で女性学修士号と社会学博士号を取得。女性学の修士論文では日本のマンガ文化とジェンダーの問題を、社会学の博士論文では日本での美容院の相互作用の観察から行為規範と分業のあり方の問題について研究を行う。