挑戦的な研究課題に取り組む国の大型研究プロジェクト「ムーンショット型研究開発制度」。野心的な目標(ムーンショット目標)を国が設定し、挑戦的な研究開発を推進するものだ。立命館大学理工学部の岡田志麻教授らの研究グループが目指すのは、「こころの安らぎや活力を増大することで、精神的に豊かで躍動的な社会を実現」することだという。目に視えない「こころ」という難題に、どのように挑むのだろうか。
● 2050年を見据えた「ムーンショット目標」とは?
● すべての人がお互いを自然に認め合える「ウルトラダイバーシティ」社会
● こころを視覚化することで何が起こるか
● こころの駆動スイッチが、活力や安らぎにつながる
● こころの解明が、複雑化する世界を整理するカギになる
若い世代の研究者が目標設定に携わった「ムーンショット目標 ミレニア・プログラム」
内閣府が管轄する「ムーンショット型研究開発制度」は、日本発の破壊的イノベーションの創出を目指し、大胆な発想に基づく挑戦的な研究開発を推進する制度だ。現在からおよそ30年後、2050年の未来に「世界はこうあってほしい」という未来社会像を描き、そのための研究開発目標を設定していく。ムーンショット型研究開発制度では7つの目標が設定されていたが、2021年9月にミレニア・プログラムとして新たに2つの目標が追加された。
「ミレニア・プログラムは、新型コロナウイルス感染症の影響などで激しく変化する社会経済情勢の中で、2020年に決定した7つのムーンショット目標に『新しい目標』を追加する必要があるということで行われました。
ムーンショット型研究開発制度では、これまでは国によるトップダウン型で目標が決定されていたのですが、ミレニアでは、これからの研究を担う若い研究者や学生が目標候補を提案した点が異なります。それぞれのチームが調査報告を行い、それをJST(国立研究開発法人科学技術振興機構)やCSTI(総合科学技術・イノベーション会議)が審査して、最終的に目標を決めるというプロセスを経ています。このプロセスを経たことも、それまでムーンショット型研究開発制度の目標設定の進め方とは違うところです」(岡田教授、以下同じ)
まさに時代の転換期とも言える今、若い研究者たちの思いが研究目標に設定されたことは注目に値する。「提案段階で感じたのは、社会や科学、また、若い人の閉塞感を何とかして打破したいという強い期待感でした」と語る岡田教授。
ここからは、最終候補案に残った提案の内容を紹介していこう。
「心(こころ)伝達技術」で目指す、2050年のウルトラダイバーシティ社会
岡田教授らが提案に携わった目標は、目標9「2050年までに、こころの安らぎや活力を増大することで、精神的に豊かで躍動的な社会を実現」というものだ。この目標を検討するうえで岡田教授が考えた、2050年の未来像とは?
「2050年には、年齢、性別、国籍、障害、文化、信条、性的指向、性自認、エスニシティなどが壁として存在しない、多様性を自然に認め合える『ウルトラダイバーシティ=超多様性社会』を目指したいと考えています。多様性を認め合うためには、まず自分自身をきちんと理解して確立したうえで他者を理解、人と自分との違いを比べて優劣をつけないことが大切で、以前shiRUtoの記事でも紹介したオンライン上からメンタルの状態を計測する『心の距離メーター』のように、こころの距離を定量化する技術やこころを伝達するコミュニケーション技術である『こころ伝達技術』も必要になってきます。この技術は、マルチモーダルなセンシングによってあらゆる日常シーンで収集された生体・環境データベースでこころをモデル化して、それを使って人と人とのこころをつないだり、こころを『視える化』したりするものです。
一方で、『視える化したこころ』を伝えるときに、たとえばこころが視えることで、相手に怒っていることがわかってしまうと、逆にコミュニケーションがうまくいきません。視覚化したこころにはフィルターをかける、ヒントだけを与える、光や音など非言語なものを使ってあいまいに表現するなどの技術の開発も考えています」
こころ伝達技術も目的は、「円滑なコミュニケーションをサポートするもの」だ。コロナ禍で一気に日常的なものとなった「オンライン会議・授業」の現場を考えても、対面時と比較してコミュニケーションや心の伝達という面では課題も多いと感じる。
「Zoomでオンラインの授業をすると、声と顔と表情が見えますが、それだけでは新入生同士は友達になることはできません。そこには足りないものがあり、我々はその正体がこころの情報ではないかと考えています。
例えば『会話の最中にサッカーという言葉が出てくると画面の色が変わる』というように、心を少しビジュアル化することができると、相手に趣味や興味が伝わってコミュニケーションが盛り上がります。また、言葉や写真、短い動画だけのやり取りであるSNSは、誤解も生まれやすいので、こころという情報が加わると誤解を解き、相手を理解するきっかけにもなるはずです」
私たちが日常的に、相手から感じ取っている微妙なニュアンス。オンラインでのコミュニケーションでは、その情報が共有されていないために、さまざまな違和感を生じているのだろう。こころの視覚化と、その“見せ方”が、ウルトラダイバーシティ時代の温かいコミュニケーションを支えるカギになる。
「こころを駆動させるスイッチ」を見つけたい
オンラインのコミュニケーションにおいてこころが可視化され、誤解や不安が減ることのメリットは大きい。では、さらにこころの研究が進むことによって、ムーンショット目標にある「こころの安らぎや活力を増大する」ことはどのように実現されていくと考えられるのだろうか。
「単純に、人から褒められるとうれしくなりますよね。そうなると次は何を頑張ろうかという気持ちにもなります。そのような幸せや安らぎ、活力を得たいというこころを駆動するスイッチを『人間関係に着目して』見つけ、特定の相手との関係性の中で、安らぎや活力を得る仕組みを解明したいと考えています。
どのような人間関係の中でこころの駆動スイッチが押されているのか、効果的にスイッチを押せるように、こころの距離メーターのような技術が、どのようなサポートができるのかといったことにアプローチし、こころの安らぎや活力の増大をサポートする技術を開発したいと思っています」
複雑化する世界を整えるために、こころの解明が必要になる
研究グループの取り組みは、2050年が目標になっている。これから30年の技術進歩とともに、ウルトラダイバーシティ社会の実現に向けて、どのような研究が必要なのだろうか。
「少しずつ限定した場所から技術を実装したいと考えています。まずは家庭、家族のコミュニケーション。もう少し広げたところで、学校の中で生徒や学生のコミュニケーションをサポートできるようにしたいですね。また、私たちのチームには、組織心理学の先生にも入っていただいているので、教育機関の広報課やリサーチオフィスといった職場における複雑な人間関係の解決も行いたいと思っています」
個人や小さな集団での「こころの伝達」から出発し、マイルストンでは「集団のこころ伝達技術によるコミュニケーションの実現」などの将来像も描かれている。コミュニケーション手段の発達と対称的に、心の解明は未だ発展途上にある。だからこそ、心に迫る研究が未来に与えるインパクトは極めて大きいといえる。
「人間は1人ではただの生物ですが、それが集団や組織、社会をつくり、それが国や世界を作っています。元々複雑なネットワークが、ネットワークの発展でさらに複雑化しているのです。その複雑なネットワークをすべて紐解いていくことは難しいですが、その中で人の誰もが持っているこころという要素を使って、悪い方向に複雑化したものをきれいに整えたいと考えています。
言うのは簡単ですが、それは月に行って帰ってくるよりもはるかに難しいことではないでしょうか。本当に実現できるのかと非常にチャレンジングに感じることもあります。それでも、この問題に取り組まないと、SDGsはもちろんのこと、ぎりぎりのところにきている環境や世界の人口問題も立ち行かなくなるに違いありません。そういう意味では、9つのムーンショットの目標の中でも、もっともムーンショットといえるのではないでしょうか。2050年には、現在の小中高生たちが、ちょうど私たちぐらいの年になってバリバリ働いているはずです。その彼ら彼女らに、『よくあのときに挑戦してくれたな』と言ってもらえるような研究をしていきたいと思っています」
岡田志麻
2000年立命館大学理工学部卒業、2002年同大学大学院理工学研究科博士課程前期課程修了、2009年に大阪大学大学院医学系研究科の後期博士課程を修了。博士(保健)。三洋電機株式会社研究員、日本学術振興会特別研究員(DC2)、近畿大学理工学部講師、立命館大学理工学部ロボティクス学科准教授を経て、2022年より同教授。立命館先進研究アカデミー(RARA)フェロー。専門は生体医工学、特に生体信号センシングのシステム開発に力を入れている。