2019年「チョンキンマンションのボスは知っている アングラ経済の人類学」で河合隼雄学芸賞と大宅壮一ノンフィクション賞をダブル受賞した、立命館大学 先端総合学術研究科の小川さやか教授。文化人類学の研究対象は「何にでも広がる」と語る小川氏は、市場や路上で生活する人々の中で研究を展開してきた。香港のタンザニア人商人たちの行動や価値観から見えてくるものとは。そして、そこで成立しているシェアリングエコノミーが、ニューノーマル時代のコミュニケーションに与えてくれるヒントとは?
だまされても「感動!」 小川教授のフィールドワークとは?
「破天荒」、そう表現しても差し支えないかもしれない。
アフリカ諸国を中心とした途上国での古着の流通、そして中古品を媒介にしたエコシステムを研究対象にしていた小川氏は、香港で実際に「古着商」として生活し、彼らの懐に飛び込むという研究スタイルを採用した。
表面からだけでは決して見ることができない、香港のタンザニア人商人たちの価値観。小川氏が体験した彼らのビジネスは、日本人が一般的に持っている価値観とは別の前提に立脚しているという。
「日本では、『信用が遂行されて当たり前』という前提から始まっていると思うんです。例えばAmazonなどで物を買うときに、ちょっとでも配送が遅れたり、画像と違うものが届いたりしたら、それは『その業者の信用の不履行』として認識されます。つまり、信用が遂行されないような関係は危険で、何とかして遂行をさせるための仕組みをつくるという考え方になっています。
一方、私が生活を共にしたタンザニアの商人たちの前提は、異なります。120以上の民族を持ち、さまざまなタイプの人間が混在する社会で人間関係を築こうとする場合、まずは誰を信頼したらいいかは分からないけれども、とりあえずは信頼をしてみるんです。しかしそれは、『この人は100%信頼できる人、この人は100%信頼できない人』といった見極めをするのではなくて、『この人だったら、このくらいは裏切るかもしれないが、これ以上はしないだろう』といった形で、折り合いを付けていく。そういう社会的知性を磨くことが、多様な人間の中で生きていく基本戦略なんですね」(小川教授、以下同じ)
そのような関係性は、小川氏も身をもって体験しているという。以前、研究を通じて仲良くなり、その商売に協力したこともあるタンザニア人を再び訪ねた時のこと。彼は、前に会ったときよりもはるかにみすぼらしく、お金に困っているようだった。
「彼は、『友人にだまされて借金まみれ』だと言いました。聞いてみると大した金額ではないので、私は彼に付いていき、借金を返すことにしたんです。しかし、いざ借金相手の家まで行くと、私を家の中に入れてくれません。
実は、彼と訪ねていたのはドラッグの密売所だったんです! でも、私はその時、すごく感動したんですよ(笑)。お金が欲しいなら、私から財布をそのまま奪ったほうが早いですよね。でも彼はそうせずに、下手な嘘をついて“出してくれそうな額”を少しずつ受け取っていた。私はそこに友情を感じました。
このような時、『この人だったら、この程度は許していいか』という感覚を持つこと。裏切りに対して手加減や、愛情のようなものを見出しておけるかどうかは、彼らの知性だと思っています」
不確実性を許容し、期待しすぎないことで生まれる“つながり”
もちろん小川氏も、タンザニア人たちのようなコミュニケーションのほうが優れていると考えているわけではない。しかし、「信頼の在り方」にバリエーションを持つという意味で、彼らの価値観は我々にも参考になるものだ。
「タンザニアの人たちは、『お互いに期待しすぎない』ことを、すごく徹底しています。なぜなら、彼らの生きる社会が極めて“不確実”だからだと思うんですよね。
商売の浮き沈みが激しい状況、香港とタンザニアを行き来するような流動的な人間関係、二度と会わないかもしれない人々。その中で、『約束は100%果たされなければ裏切りだ』という価値観は、非常に大きな負担になるからです」
彼らは、何か頼み事や相談ごとがあるとき、彼らが築いてきたネットワーク「とりあえず頼み事やアイデアを投げっぱなしにしておく」のだという。多くの人は、その投げかけをスルーし、いちいち気にはしない。そして、たまたま反応があった“誰か”と商談を始めるのだ。
「これでは不確実すぎるように思われるかもしれませんが、彼らの間では、これが十分に機能しています。Twitterでも、自分が誰にも返答しなければ自分のフォロワーも増えていきませんよね。だから、お互いに『他人の相談に乗る』ことが必要になるんです。
『このくらいの支援の求めなら、ついでの機会に何とかしてあげよう』とか、『このくらいの相談だったら私が協力できる』みたいな感じで、余裕があるときにはなるべく応答しておいたほうが、人間関係やビジネスも広がる。そんな仕組みなんです」
ニューノーマル時代に注目されるべき「頑張らないシェア」
小川氏は、タンザニア人たちのコミュニケーションは、人間関係の構築やビジネスというだけでなく「シェアリングエコノミー」においても、私たちに新しい価値観をもたらしてくれるものだと期待している。
「近年、日本においても『シェア』の概念やサービスは大きく浸透しています。しかし、私たちが思っているシェアと、タンザニア人たちのシェアには、大きな違いがあるように思います。
日本の人たちがシェアをしようと考えると、『シェアをする人間関係をつくろう』とか、『シェアをするための場所やルールなどをつくろう』みたいな発想になりがちですよね。
しかし、タンザニア人たちは、結果としてシェアされているけれども、シェアの環境を整備しているわけではありません。『みんなで頑張って何かやろう』みたいな回路とは全然違う回路でシェアを実現しているんです。
『シェアしてあげた』『私たちはシェアし合っている』と言っているときは、まだ頑張ってシェアを維持している段階だと思うんですね。むしろ、そういうことはほとんど意識せず、『ついでにやってあげた』『気が合ったから乗りでやった』というように、結果としてシェアをつくり出している状態が、気持ちのいいシェアを実現することもあるのではないでしょうか」
「頑張らないシェア」には、明確なルールは存在しないだろう。むしろそこでは、タンザニア人商人たちが不確実なコミュニティの中で発揮しているような、手加減や愛情、思いやりといった、人間としての“素の感情”が重要な意味を持つのかもしれない。
今後、「貨幣」や「ギグエコノミー」についても、研究を深めていくという小川教授。私たちがまだ知らない、価値観やコミュニケーションへの視点に注目していきたい。
小川さやか
京都大学博士(地域研究)。国立民族学博物館助教などを経て、立命館大学に着任。現在は、先端総合学術研究科教授を務める。専門は文化人類学、アフリカ研究。『都市を生きぬくための狡知』(世界思想社)で第33回サントリー学芸賞(社会・風俗部門)、『チョンキンマンションのボスは知っている』(春秋社)で第8回河合隼雄学芸賞、第51回大宅壮一ノンフィクション賞受賞。