「ワイルドライフ・ツーリズム」という言葉をご存知だろうか。アフリカのサファリ観光やホエールウォッチングのことだと言えば、イメージしやすいだろう。そうした野生動物と出会う観光が、今、なぜ人気を集めているのか。日本でワイルドライフ・ツーリズムが広がっていくにはどういう課題があるのか。立命館アジア太平洋大学の笛吹理絵助教にお話を伺った。
● ワイルドライフツーリズム=野生動物との出会いを目的にした観光
● 日本国内のワイルドライフ・ツーリズムは?
● 野生動物保護と地域経済発展を両立させる
● 「観光利用」と「自然保護」のバランスが大切
● 動物の福祉への配慮も求められている
野生動物の観察や滞在体験を観光化した「ワイルドライフ・ツーリズム」
「ワイルドライフ・ツーリズム」とは、野生動物との出会いを目的とした観光のこと。動物園や水族館などの飼育環境下の観光を含めるか否かは研究者によって異なるが、本稿では、スポーツハンティングやスポーツフィッシングなど野生動物を消費する形態の観光は含まず、自然生息地での野生動物の観察や滞在体験といった非消費型(動物を殺したり、傷つけたりせず、観察するだけ)の観光形態を、「ワイルドライフ・ツーリズム」と呼ぶ。
日本での認知度はまだあまり高くないが、グローバルで見ると、コロナ禍以前の2019年で旅行観光産業全体の直接経済波及効果の4.4%、雇用の6.8%を占めていて、ワイルドライフ・ツーリズムは世界的に確立した観光形態だと言える。
具体的にワイルドライフ・ツーリズムがどういうものなのかというと、ライオンやキリンなどを見に行くアフリカのサファリ観光、ゴリラの観察ツアー、ペンギンやアザラシなどを見に行く南極半島ツアーなどが、まず真っ先に挙げられる。他にも、クジラと泳いだり、イルカと泳いだりするツアーや、パンダを見に中国へ行く、コアラを見にオーストラリアへ行くというのも、ワイルドライフ・ツーリズムに含まれる。
国内でも、小笠原諸島(東京都)のホエールウォッチングやドルフィンスイム、知床半島のシャチやヒグマを観察するツアーなどワイルドなものから、野生のサルを餌付けしている高崎山自然動物園(大分県)、温泉に入る野生の猿が観察できることで有名な地獄谷野猿公苑(長野県)といったほのぼの系まで、多種多様なワイルドライフ・ツーリズムが楽しめる。
途上国における野生動物保護と経済発展の両立も背景に
ワイルドライフ・ツーリズムは、なぜ人気を集め、どのように発展してきたのだろうか。
「大きな背景として、私たちの生活が急速に都市化していく中で、野生動物を見に行きたい、野生動物と触れ合いたいという欲求が高まっていたことがあります。加えて、動物たちの生息地が破壊され、多くの野生動物が絶滅の危機に瀕しているという現実があって、野生動物の保全の必要性が高まっていました。
世界的に見たとき、野生動物が多く生息しているのは資源にも乏しい発展途上の地域であり、野生動物の保護、生息地の保全と地域経済の発展を両立させる手段として期待され、ワイルドライフ・ツーリズムが発展してきました。
ですから、世界を代表するようなワイルドライフ・ツーリズムの観光地の多くは各地の自然保護地域の中にあり、観光資源となる貴重な自然が保護の対象となっています。また、観光が野生動物にどういう影響を与えるのかについて専門家による研究も進んでいますし、野生動物と自然環境の保護に関する教育・啓発に力を入れている観光地もあります。
日本の場合、野猿公苑や高崎山など研究の蓄積があるところもありますが、教育的な面での整備が少し足りていない観光地もあるように感じています」(笛吹助教、以下同じ)
誰がどのように管理するかという「方針」が必要
ワイルドライフ・ツーリズムでは、いかに「野生動物の観光利用」と「自然環境の保護」のバランスを取っていくかが重要な点だと言える。日本においてワイルドライフ・ツーリズムに対する理解を広げ、その価値を根付かせていく上で、何が必要になるだろうか。
「野生動物を観光利用することは、当然、動物にも影響を与えます。例えば、屋久島でも、観光客が動物に餌を与えることが問題になっています。観光客が餌を与えることで動物が人に慣れすぎてしまって、それまで野生の状態にあった動物が人里に出てきて餌を狙ってしまうという悪循環が生まれないよう、誰が、どのように管理していくのかという方針を決めておく必要があると思います。
管理体制がうまく整備された事例としては、地獄谷野猿公苑が挙げられるでしょう。野猿公園の場合、観光客が餌付けすることでサルの生態にどういった影響があるのか、霊長類学者の方による長年の研究の蓄積があって、1980年頃から観光客による餌やりを禁止し、現在のような施設側の“管理された餌付け”によって野生のニホンザルを安全に、また、いつでも観察できるようになりました。これは、世界的に見ても比較的珍しいやり方です。
一方で、近年、SNSなどのソーシャルメディアの影響によって、ネコやウサギなど希少動物ではない比較的身近な動物が観光の対象となり、思いもよらなかった場所に観光客が集まってくるといった現象が見られます。そうした、言わば『観光客が勝手に作り出したワイルドライフ・ツーリズム』においては、ほとんど管理の体制が整っていないというのが現状だと思います」
「動物の福祉への配慮が必要」という世界的な潮流
では、管理の行き届いたワイルドライフ・ツーリズムとは、どういうものなのだろう。
「観光地における非計画的で規制のない餌やりは、個体数密度の増加、餌を巡る個体間の競争の激化、行動の変化など、さまざまな問題を生じさせます。私が継続的に調査している広島県の大久野島のウサギ観光は、地元の方々が観光を推進したわけでなく、YouTubeなどのSNSにアップされた動画が世界に広がった『観光客が作り出したワイルドライフ・ツーリズム』の一つです。しかし、大久野島のウサギの健康状態を調査した研究によると、ウサギの死因の多くが、観光客による不規則で不健康な餌の提供による消化器系の不全であることが分かっています。
大事なことは、餌やりを管理することはもちろんですが、餌やりに象徴される私たち人間が野生動物に接する中でどういう影響を与えているのかを自覚、認識することではないでしょうか。ワイルドライフ・ツーリズムにおいては、どういった場合でも観光全般を管理する体制は必要であり、それに加えて動物の福祉への配慮が必要だというのが世界的な潮流になっています。倫理的な規範意識も含め、動物の生態系、自然環境に対する理解が深まるような啓蒙・教育がパッケージされたワイルドライフ・ツーリズムが求められていると考えています。
動物・自然との共生に対する理解を深めるのにワイルドライフ・ツーリズムがどの程度役割を果たせているのかは、まだ長期的な研究が少なく、なかなか評価が難しい問題です。近年では、クマによる人的被害などがメディアで取り上げられ、『ワイルドライフ=恐怖』というイメージを持たれる方もいるかもしれません。ただ、私の個人的な意見としては、『ワイルドライフ=恐怖』ということが必ずしも悪いことだとは思っていなくて、むしろ自然に対する畏敬の念を持つことは、動物を含めた自然との共生につながるのではないかと思っています。適切な管理・運営が行われているワイルドライフ・ツーリズムの拠点が広がり、自然と人間の共生を一人ひとりが考える機会が増えることを期待しています」
その第一歩として、笛吹助教は立命館アジア太平洋大学を研究拠点に、大分県内のワイルドライフ・ツーリズムのネットワークをボトムアップ的に広げ、学生にもワイルドライフ・ツーリズムに関する教育の場を提供する取り組みを始めている。単純に環境保護を訴えるのではなく、「観光」を掛け合わせることで経済的自律性を確保し、人材も育てていく。——そうしたワイルドライフ・ツーリズムの思想こそ、「サステナブルな観光」なのだろう。
笛吹理絵
広島大学大学院総合科学研究科博士後期課程終了。博士(学術)。2023年4月より立命館アジア太平洋大学サステイナビリティ観光学部助教。観光地理学、動物地理学、人間動物関係学を専門とし、主にWildlife tourismという観光形態に焦点を当て、自然や動物との共生に関する研究を行う。屋久島・宮島を事例に観光開発による人とシカの関係性の変化、大久野島(ウサギ観光)を訪れる観光客の経験など、日本の動物と観光について、様々な側面から研究を進める。