村上春樹の6年ぶりの長編となった『街とその不確かな壁』。この作品は、1985年に発表された『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』と並立する世界を持っているともいえるが、これらの作品群はどのように読むべきなのだろうか?
『世界の終わり〜』を村上作品で最も評価してきたと語る、立命館大学文学部の瀧本和成教授に、初心者におすすめの読み方や、虚構世界の楽しみ方を聞いた。
● 文学者が考える『街とその不確かな壁』の位置付け
● 『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』と合わせて読むべき?
● 虚構性の高い物語がもつ「現実に立ち向かう力」
● 瀧本教授が薦める「虚構性の高い物語」3選
最新刊『街とその不確かな壁』の登場が示唆するもの
街と壁。これらのキーワードは、村上春樹作品を読んできた読者にとって、“ピンとくる”ものだったといえる。それは、1985年の『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』に登場する「壁に囲まれた奇妙な街」であり、今回の作品もその世界との関連を強く感じさせた。そこにはどのような意味が見えるのだろうか?
以前、shiRUtoの【村上春樹のおすすめは? “酔えるムラカミ”から“喪失の回復”まで】の記事で、村上作品で『世界の終わり〜』を最も評価していると語った瀧本和成教授の視点とは。
「今回の『世界の終わり〜』を補完するという新作には、『夢と現実の問題を再検討する意識あるいは意図』が見えると思います。あるいは、両作品に内在する壁を『現実と非現実』あるいは『現実と夢』との境界として捉えていて、特に夢の部分を多く描いていると感じました。
そしてもう1つ感じるのは、現実社会批判の側面です。つまり、彼が2009年にイスラエルの文学賞受賞でガザ地区への攻撃を批判したことの延長として捉えることもできるのではないかと思うのです。村上は授賞式で『固い、高い壁があり、それに1個の卵がぶつかって壊れるとき、どんなに壁が正しくても、どんなに卵が間違っていても、わたしは卵の側に立つ。なぜならば、わたしたち1人1人は1個の卵であり、ひとつしか存在しない、壊れやすい殻に入った精神だからだ。わたしたちが立ち向かっているのは高い壁であり、その壁とは制度だ』と語っています。
つまり、その壁とつながった形で、この作品も書かれているのではないかと感じました。その批判は、現在起こっているウクライナへのロシア侵攻批判ともつながるものかもしれません」(瀧本教授、以下同じ)
もちろんこれらの指摘の根拠は、作品の中で直接的な表現で現れることはない。しかし瀧本教授は、村上春樹がいつも隠喩的な表現を使って柔らかく、間接的なイメージとして作者自身の問題意識を膨らませるような表現をしてきたと考えているという。
関連作「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」はどう読めばいい?
『世界の終わり〜』は、およそ30年前に書かれた作品であり、若い村上春樹読者や、今回の『街とその不確かな壁』で村上作品に触れた読者は、これらの作品をどのように読むべきか迷う場合もあるだろう。瀧本教授が3つの“読み方”を薦めてくれた。
「まず1つの読み方として、関連作品ということは気にせず、独立した物語として自由に読んで構わないということです。それぞれの作品は十分に読み応えがあるもので、物語そのものも直接的に繋がっているものではありません。『最新作から村上作品に触れる』というのも、素晴らしい読み方だと思います。
そしてもちろん、『世界の終わり〜』が気になる方も多いでしょう。それならば、ぜひ発表された順番、つまり『世界の終わり〜』を読み、次に最新作『街とその不確かな壁』を読んでみてください。文学を楽しむ上では、発表順は非常に重要で、作者の状況や認識の変遷を感じながら読むことができると思います」
そして3つ目に教えてくれた読み方は、関連2作品以外を経由する読み方だ。
「作家の問題意識の変遷に深くコミットして読みたいという方には、『世界の終わり〜』から『ねじまき鳥クロニクル』を介して、『街とその不確かな壁』に読み進んでいく方法です。『ねじまき鳥〜』は、村上春樹が虚構からリアルへと作品世界を大きく変化させた節目ともなった作品です。この順で読むことで、虚構〜リアル〜そしてまた虚構へという転換を、意識的に追体験しながら読むことができると思います」
村上作品の“虚構への回帰”をどう捉えるか
最新作『街とその不確かな壁』では、村上春樹自身が『世界の終わり〜』を“補完する物語である”ことに言及している。それは何を意味しているのだろうか。
「村上のいう“補完”という表現について、私は彼の問題意識の深まりに沿って書き足す必要が出てきたのではないかと考えています。具体的には、街=夢の世界との境界をもっと鋭く、あるいは多角的に描くことを通して、『現実と対峙するための準備期間、あるいは休息場所を描いている』『その上で現実世界に立ち戻る作品になっている』と考えるのです。
夢というのは、根源的には“文学そのもの”を指しているとも言えるでしょう。文学は現実世界に対してコミットメントが可能なのかという、彼のテーゼも、今回の作品には含まれていると思います。夢=虚構=文学が、現実に対して何をもたらすのかということも、作家本人は考えて書いていたと思います。その意味で、『街とその不確かな壁』は彼の小説全体の中で、1つの分岐点になる可能性があるのではないでしょうか」
想像力をかき立てる虚構世界が、現実に立ち向かう心を癒やす
瀧本教授の指摘する、村上作品の「虚構とリアル」。ここからは、文学において虚構が果たす役割についてみていこう。
「村上春樹の初期作品や、今回の『街とその不確かな壁』のような虚構性が高い作品というのは、言い換えれば想像力がより多く発揮されている作品ともいうことができます。
想像力が発揮された作品・場所というのは芸術作品やコンテンツなど、数限りなくあります。その中でも文学や芸術は、最も純粋度が高い自由な領域であり、私たちはその世界に足を踏み入れることによって、心身ともに解放される。自由な空間に身を置き、感動や美しさを体験することができます。
リアルと虚構、どちらが優れているということではありません。リアル=現実世界というのは、いつの時代も、誰にとっても厳しいものです。束縛や葛藤、さまざまな不自由もあります。虚構世界は、その『現実に立ち向かうための自由な空間』と捉えられると思うのです」
小説を読みながら、壁に囲まれた世界に身を置いている間、我々読者もまた壁の向こう、つまり虚構世界に身を置いている。そしてまた、作品を離れれば現実世界に戻ってくる。
「現実なしに虚構はあり得ません。ベースは現実やリアリズムです。しかし人間は、リアリズムだけでは生きていけない存在でもあります。特に近代人は自由を求める生き物です。その自由がどこにあるかを考えると、想像力が最も発揮された場所に純粋な自由が存在する。そのひとつが文学作品なのではないかと思うのです。
作品を読み終え、もう一度現実に帰ったとき、その体験が読者の現実にとってどのような意味を持つのか。村上自身もいま、そのようなことを考えているのかもしれません」
文学部教授が教える 今読んでおきたい3冊の「虚構性の高い文学作品」
虚構性が持つ、現実世界における「純粋な自由」。私たちが文学や映画、アニメ作品などを通じて体験しているのは自由な時間と空間であり、それは現実に立ち向かうために必要なものだとも言えるのではないだろうか。
最後に、瀧本教授に村上作品以外で『虚構性が高い文学作品』を教えてもらった。
1.『族長の秋』 ガブリエル ガルシア=マルケス(集英社)
「世界文学で見ると、私が最も虚構度が高く素晴らしい作品として推したいのがマルケスの『族長の秋』です。自由度の広さをぜひ体験してみてください」
2.『転生夢現』 莫言(中央公論新社)
「中国のノーベル賞作家、莫言の『転生夢現』(原題:『生死疲劳』)という作品もとても虚構度の高い作品です。マルケスの影響も受けながら、非常に幻想的な世界を現代文学として結実しています」
『壁』 安部公房 (新潮文庫)
「第一部の『S・カルマ氏の犯罪』という作品は、当時、前衛作品ということで芥川賞を受賞しました。想像力が存分に発揮された作品であることはもちろん、安部公房は自らの存在自体を疑った作家という意味で極めて特異です。日本文学の作家が基本的なテーマとするのは『どう生きるか』です。存在自体はなかなか疑いません。自分が本当に生きているのか、安部は存在自体を疑います。
壁というキーワードは、今回の村上作品とも通じるところがあります。ぜひそこにも注目して、楽しんでいただきたい作品です」
瀧本和成
立命館大学文学部教授・文学研究科長。日本近現代文学、特に、森鷗外、夏目漱石、与謝野鉄幹・晶子、石川啄木、北原白秋、木下杢太郎、芥川龍之介等を中心とした20世紀初頭の文学が専門。現在は、大江健三郎、安部公房、村上春樹など現代文学や演劇、映像へと研究対象を広げている。また、京都に関わりを持つ文学者や作品といった領域でも研究を深めている。編著等に、『森鷗外 現代小説の世界』(和泉書院)、『鷗外近代小説集』第2巻(注釈•解題•本文校訂•共編集 岩波書店)、『京都 歴史•物語のある風景』(編著 嵯峨野書院)など多数。Café、Alcohol、麺類、鮨が好き。