『宝島』『パイレーツ・オブ・カリビアン』『ONE PIECE』…、海賊たちの物語は、いつの時代も私たちの冒険心をかき立て、スリリングでロマン溢れる世界を見せてくれる。しかし、実際に大航海時代を生きた海賊たちの真の姿は、私たちのイメージとは少し違うかもしれない。歴史学の世界から見た海賊の世界には、知られざる興味深い事実があった。
● かつて、海上での掠奪行為が公的に認められていた時代があった
● 海賊たちが存在した時代とは?
● 海賊とは、どんな人々だったのか
● 民主的側面もあった、海賊たちの組織
「掠奪=犯罪」ではない? 近世のヨーロッパでは、国家に認められた掠奪行為があった
海賊の“なりわい”といえば、他の船舶を襲っての掠奪(りゃくだつ)というイメージがある。もちろん間違ってはいないのだが、立命館大学文学部の薩摩真介准教授によれば、掠奪行為をしていたのは海賊だけではないのだという。
「掠奪行為と聞くと、現代の価値観ではすべて『非合法の犯罪行為』であると考えがちですが、近世のヨーロッパには『政府が認可した公的な掠奪行為』がありました。掠奪の中に3つのサブカテゴリがあり、①海軍による拿捕、②私掠(しりゃく)船による拿捕、そして3つ目が③海賊行為になります。主体が違うだけで、やっていることは『相手の商船を襲って掠奪する』ことであり、共通しています。
近世ヨーロッパの海の世界においては、『戦争のときであれば敵の船を襲って利益を上げることは当然の行為』という意識が強くありました。現代の我々には理解しがたいことですが、特に収益を伴う海軍による拿捕行為は、イギリスの場合は形を変えながらも第二次世界大戦頃まで残っていたんです」(薩摩准教授、以下同じ)
驚くべきことに、当時「掠奪行為」をしていたのは、海賊だけではなかったのである。
近世を通じて「海賊」の定義や立場は変化していった
ひと言で「掠奪」といっても、その実情は時代の変化とともに変わっていった。近世以降、ヨーロッパ諸国が海外進出をしていく中で、海上での“つばぜり合い”はどのように変化していったのだろうか。
「言うまでもなく海というのは非常に過酷な環境であり、15世紀頃までは国による海賊行為の取り締まりもままならない世界だったといえます。国家も感知しないような海賊行為が行われていたと考えられますし、それが必ずしも『犯罪行為』だと認識すらされていなかった時代でもありました。
その後、17世紀の半ばぐらいから、海軍による拿捕や私掠行為のような、国家にコントロールされた形での掠奪行為が整備されていきます。一方で、そこに含まれない『勝手に掠奪するような人たち』が、『海賊』という犯罪者として排除されていく流れをたどります。18世紀初頭には、掠奪の区分が法的にも実態としても、明確になっていきました」
①②については完全に公的に認められた活動であり、その制限の範囲内でやっている限りは犯罪行為とはみなされなかった。特に戦争中であれば、掠奪=敵国を弱体化させる手段となる。また、②の私掠行為の場合は、民間の船に掠奪の許可を出し、敵国の商船を襲ってもらうことで、軍事的なメリットも期待できたのである。
「例えば近世の大西洋世界での植民地拡張を考えてみると、イギリスは植民地を拡張していく過程で、海賊も含めた『掠奪行為を行う人たち』を途中までうまく利用していました。しかし途中から、さまざまな問題が起こってきた。そこで、法を整備して、『管理できる掠奪』と、そうではない掠奪に分けていった。ルールから外れて掠奪を行う人々が『海賊』とされ、海軍の強化とともに、徐々に鎮圧されていったのです」
掠奪を担っていたのは、どのような人たちだったか? 〜私掠船の場合〜
では、実際に「掠奪」を行っていたのは、どのような人々だったのだろうか。海賊の前に、まずは民間の「私掠船」を構成していた人々について見ていこう。
「私掠船は商人などが用意した民間の船で、平時には普通に貿易船として活動しています。しかし、戦争になると敵国との間の経済活動がストップしてしまうので、船と資本が余ってしまうわけです。その活用法として私掠行為がひとつの“投資先”になりました。私掠船はいわば、戦争中にだけできるビジネスだったのです。
実際に私掠船に乗り込んだのは、いわゆる『水夫』でした。あるときには商船に乗っていたり、時には海軍で働いたり…。当時の水夫は、雇用条件に応じて航海ごとに職場を変えることができました。
掠奪における戦闘においても、基本的には水夫が大砲を自分たちで撃ちました。掠奪専門の兵隊がいたわけではなく、水夫自体が戦力になっていました」
では一方で、海賊になったのはどんな人々だったのだろうか?
「カリブの海賊」のイメージは“末期”の海賊たち 〜失うものがない人々〜
「海賊を構成していた人々も、その多くは簡単に言ってしまえば私掠船と変わらない『水夫たち』でした。18世紀初頭の海賊たちを前提に話しますが、自分の乗っている船が海賊船に捕まったとき、『おまえたちも仲間にならないか』と勧誘されて海賊集団に加わったケースが一番多いと言われています。
当時の水夫は非常にきつい仕事なんです。さらに危険も多く、いつ命を落としても不思議ではない。そういう中で、労働環境に不満を持った水夫たちがどんどんと加わっていったと指摘する研究者もいます」
薩摩准教授によれば、18世紀初頭の時期において、海賊に身を置くことになった人々は、主にイングランド、アイルランドなどイギリス諸島の出身やその植民地の出身者だったという。
「平均年齢は28歳くらい。当時の尺度でいえば、『もの凄く若いわけではないが、ある程度の経験を持った水夫』で、独身の男性が多かったといわれます。つまり、“失うものがない人たち”なんですね。命の危険がある毎日を過ごし、このまま生きていても、働いてこき使われるだけなのは目に見えています。家族がいれば海賊になるのも躊躇すると思いますが、それもいない。
特に18世紀初頭の海賊は、捕まったらすぐに処刑されてしまう存在です。海賊行為に対する取り締まりも相当厳しくなっていたので、海賊に加わること自体、『まっとうな人生は諦めよう』という判断であり、かなり“やけっぱち”な人たちでした」
ある意味で、社会のセーフティーネットからもこぼれ落ちた水夫たちが、最後に行き着くのが海賊であった。
「海賊=ならず者」なだけではなかった 独自の民主的(?)なシステムとは
一方、“失うものがない”存在であった海賊たちも、単なる「ならず者」というわけではなかった。それどころか最近では、18世紀初頭の海賊は、ある意味で「民主的」な組織を形成していたこともわかってきている。
「『海賊船の船長』というと、絶対的な権力を持っていて、逆らう部下は気分次第で殺してしまうようなイメージを持つかもしれません。しかし、実はそうではなかったといわれています。船長といっても、あくまで仲間内の代表者ぐらいの立場だったのです。
むしろ、海賊船の社会において一番力を持っていたのは、乗組員全員で集まって物事を決める集会でした。船長も仲間たちから認められなければ、場合によっては追放されることもありました。現代の民主主義とはやや違いますが、このように一部では『民主的』とも言える特徴も持っていました。
海賊船の船長は、海軍の艦長などと違い、背後に政府のような陸上の権力の後ろ盾がある立場ではありません。仲間から選ばれたにすぎないので、逆にいうと、クビにもしてしまえる。海賊集団の『民主的』ともいえる性格は、バックに何も権力がないという共同体の成り立ち自体に起因する特色だろうと考えています」
現在、さまざまなエンタテインメント作品で登場する海賊たちは、「ロマンチックなアンチヒーロー」のような描かれ方をすることも多い。また、先に述べた海賊集団の「民主的」性格を強調する研究も見られる。しかし薩摩准教授は、海賊を過度に美化することには違和感もある、と話す。
「海賊たちの主な目的は戦利品の獲得ですが、仲間の復讐のためには自分たちの利益を度外視して戦うなど、それだけでは説明できないところもあります。また、社会で散々ひどい目に遭ってきた人たちが、非合法な形であれ、“社会的復讐”として海賊行為をやっていたという面もないわけではない。
しかし、その面だけを強調して海賊を美化して認識してしまうと、実際の彼らの姿を見誤ると思います。歴史研究者としては、漫画や映画の理想化された海賊像とは異なり、一見地味ではあるけれども、より生々しい海賊の姿のほうに興味があります。」
冒険心をかき立てる大航海時代の“荒くれ”たち。創作としての海賊たちを楽しみながら、海賊として生きざるを得なかった水夫たちの生き様にも、想いを馳せてみては?