SDGsが世界的な目標になり、持続可能な社会の実現に向けた動きが活発になる中で、倫理観のある消費を意味する「エシカル消費」という言葉を耳にすることも増えてきた。では、エシカル(倫理的)な消費とは具体的にはどのようなものだろうか。食の観点から現代世界の社会問題を研究している立命館大学食マネジメント学部の安井大輔准教授に、エシカル消費の本質や、取り入れる際のポイントなどについて聞いた。
● エシカル消費とは何か?
● 「ときどきエシカル」で構わない
● 土用のウナギはエシカルではない?
● 常にエシカルな選択肢があることが大切
● エシカル消費を担うのは「考えつづける人」
エシカル消費とは? 「量り売り」「フェアトレード」もエシカル消費
そもそも「エシカル消費」とは何だろうか? エシカルは「倫理」を意味する英語エシックの形容詞なので、直訳すれば「倫理的消費」ということになる。
エシカル消費はSDGs(持続可能な開発目標)の17のゴールのうち、特にゴール12「つくる責任 つかう責任」に関連する取り組みを指し、「地域の活性化や雇用なども含む、人や社会、環境に配慮した消費行動」と定義されている。この適用範囲は多岐にわたるが、今回は特に「食」に関わる分野で、我々にどのようなアクションが可能かを掘り下げていく。
「エシカル消費(倫理的消費)」の一般的なイメージは、環境負荷の少ないオーガニックなものや地産地消など、“環境や地域にとってよい食品を選ぶ”というものでしょう。
もちろんそれで正解なのですが、食品以外も対象になることがあります。たとえば、プラスチックのケースに入った小分けの肉を買うのではなく、量り売りを利用すればプラスチックゴミの削減につながり、エシカル消費の対象になります。また、コーヒー豆などを、生産者の生活を保証できるようなフェアな価格で買う『フェアトレード』も、より公正な社会の実現を目指すという意味でエシカル消費に含まれます。
また、『エシカルでない企業の製品を購入しない』という選択もまた、エシカル消費といえるでしょう。生産者を不当に扱っていたり、環境に配慮しないような工場を稼働していたりする企業を避けるという“非消費”も広義では含まれると考えています」(安井准教授、以下同じ)
「常にエシカル」である必要はない。選択肢を持っておくことが大切
エシカル消費に該当する「オーガニック」「フェアトレード」を謳った商品は、現状では比較的高価格帯になる傾向がある。意識としてはエシカル消費をしたいが、金銭的な制約でアクションに踏み切れないという消費者も多いだろう。
このような、社会的なムーブメントにしていく上での難しさに対して、どう考えるべきだろうか。
「例えばファッションを例にあげると、高級ブランドとはいかないまでも、やや高めのランクの商品のほうが長持ちすることがあります。数年単位で比べると、結果的には安価なものを買うより得だったという経験は誰にもあるのではないでしょうか。
食品についても同じことがいえます。とにかく安いもの、量の多いものばかり選んでいると、もしかすると健康寿命が短くなり、人生全体で考えると損をするかもしれません。つまり、『もっとも安いものが、長期的に見て得になるのかどうかを考える視点が大切』なのです。
とはいえ、『暮らしに余裕がないから、どうしてもコストパフォーマンス重視になってしまう』という意見を否定するものではありません。私自身も学生時代は貧乏でしたから、学生や若いかたがそういう選択になる気持ちはよくわかります。
しかし、コストパフォーマンス以外の選択肢を持ってみることも、ときには必要ではないでしょうか。『今月はアルバイトを頑張ったから、自分へのご褒美を買ってみよう。どうせなら社会やほかの人にもよさそうなものにするか』といったきっかけでもいいと思います。エシカル消費を常に行う必要はありませんが、選択肢として持っておくことが大切だと思います」
土用の丑の日はエシカルではないのか? 伝統と倫理のバランスとは
食は文化とも密接に関わっている。例えば、日本には「土用の丑の日」があり、全国でウナギが大量に消費されるのはご存じの通りだ。食文化を守っていくことは重要だが、エシカル消費の視点で捉えると、疑問も湧いてくる。
「一般に伝統文化を守ることは重要といえますが、“ひたすら守ればよい”というものではありません。文化はそれ自体が変化していくものですし、ときには文化同士が競合することもあります。夏にウナギを食べるのは日本の伝統文化といってもいいでしょう。しかし、シラスウナギが少なくなり、保護の必要がある状況で、伝統文化だからとウナギを食べ続けることは、環境の面でエシカルなのでしょうか?
いま私が疑問形で話したのも、『エシカル消費の答えはひとつではない』からなのです。誰にとってエシカルなのか、漁業者か、文化の担い手か、地域の歴史か。視点を変えれば、さまざまなエシカルが浮かんできます。
エシカル消費を考える上では、ひとつの価値観に固執するべきではありません。さまざまな基準があるという前提を忘れないことも大切です」
「常にエシカルな選択肢がある」ことが大切
SDGsが謳う「持続可能な世界」のために、エシカル消費はいうまでもなく重要な取り組みだ。一方、それは消費者の意識や購買だけで実現されるものではない。エシカル消費が普及していく上で必要なものは何か。安井准教授はエシカル消費の選択肢が増えることが重要だと指摘する。
「消費者がエシカルな商品を買うだけではなく、社会や行政が『選択肢を増やす』ことが大切です。
ドイツやオーストリアは、エシカル消費先進国といえます。共通しているのは、どこにでもある普通のスーパーマーケットで、エシカル商品が普通に手に入ることです。しかも、価格帯も安価なものから高価格帯まであり、コストを問わずエシカルな選択肢が用意されているのです。
有機農業の研究では、これこそがエシカル消費が広まった理由だと指摘されることもあります*。個人の行動変容はもちろん重要ですが、商品が売っていなければ、アクションしたくてもできません。また、わざわざ“エシカル意識の高い店”に行かなければ買えないのでは、閉鎖的で一時的な活動で終わってしまうでしょう。
私が調査しているフィンランドでも、エシカルな商品と、そうでない商品を当たり前のように選択できるようになっています。たとえばHesburgerという全国チェーンのファストフードハンバーガー店では、普通のハンバーガーと、大豆ミートのベジバーガーが並んで販売されています。そのような選択が“当たり前のこととして常にある”状態になっているのです」
では、取り組みの先進国ではエシカル商品を扱うスーパーマーケットなどに対して、行政の支援や支援制度のようなものは用意されているのだろうか。
「ヨーロッパの行政機関が行っているのは、支援よりも『仕組みづくり』です。例えば、オーガニック野菜などのエシカルな食品を、市町村単位で学校給食に使うという取り組みがあります。
年間契約で無農薬の野菜を給食に提供し、普通の野菜との差額は行政が負担するという仕組みになっているので、子どもの保護者も、野菜の生産者も安全・安心を確保できるわけです。生産や購入の費用を支援することも大切ですが、生産と消費を循環させる仕組みを行政がシステムとして構築することが取り組みを持続させていくために必要不可欠だといえるでしょう」
*参照文献
香坂玲・石井圭一, 2021, 『有機農業で変わる食と暮らし―ヨーロッパの現場から』岩波書店
何が正しいのかを多面的に考え、考え続けることが「エシカル」
翻って日本では、どのような取り組みが必要なのだろうか。新しいシステムが必要なようにも思えるが、安井准教授は日本文化がすでに内包しているエシカルな要素に注目する。
「例えば日本には、新しく大豆ミートをつくらなくても、豆腐や油揚げをはじめ、大豆製品がいくらでもあります。つまり意識しなくても、エシカルな消費をしていることがあるのです。
さらにつけ加えると、すべての大豆ミートがエシカルというわけではなく、すべての肉がエシカルではないということもありません。不当に安い賃金で労働者を搾取する工場で作られた大豆ミートと、のびのびとした完全放牧の環境で自然の餌で長い期間大切に育てられてきた家畜の肉とでは、どちらがエシカルであるといえるでしょうか」
安井准教授はエシカル(倫理)について、「自ら考えるもの。自分にとって何がどのようによいのか、何が正しいのかを考え続けることが必要」と語る。
「エシカルとは結局のところ、『自分にとって、何がどのようによいのか、正しいのか』を、自ら考えられるようになる方法といえます。たとえば、環境によいものと文化によいものが対立すると、選択が求められます。その時、自分なりの基準を複数持っていると、納得できる選択ができる。その選択が、社会や自然にとってより良いものであれば、それは自分にとってエシカルな選択になります」
値段や視覚的なイメージだけで、購入の判断をするのではなく、商品につながる人々や社会、ストーリーに心を向けること。その繰り返しの中で、自分なりのエシカルを見つけていくことが、我々消費者にも求められている。
安井大輔
立命館大学食マネジメント学部准教授。専門は社会学、フードスタディーズ。京都大学経済学部卒業、京都大学大学院文学研究科博士後期課程研究指導認定退学、博士(文学)。日本学術振興会特別研究員PD、明治学院大学社会学部専任講師、同准教授を経て2020年4月より現職。この記事内容に関連する著書として『フードスタディーズ・ガイドブック』(編著、ナカニシヤ出版、2019年)、『農と食の新しい倫理』(分担執筆、昭和堂、2018年)がある。