1998年に自殺者が3万人に達して以来、自殺対策は国にとっても重大な課題になっている。さまざまな対策が行われた結果、課題となっていた中高齢男性を含む各年齢層の自殺は減少してきたが、10代の自殺は現在に至るまで減少の兆しが見えていない。
立命館大学の川野健治教授(総合心理学部)らが考案した、学校における自殺予防教育プログラム「GRIP」は、これまで行われてきた「いのちの大切さ」を教育する方法とは一線を画す、新しい自殺予防教育プログラムだ。
自傷行為や自殺といった行動に走ってしまう子どもたちを対象とした場合、学校という集団教育の場ではどのようなメッセージが投げかけられるべきなのか?
大人の感覚では捉えきれない「子どもたちの視点・思考」について掘り下げながら紹介する。
「つらいことは先生に相談しよう」は、子どもの耳に届くだろうか
自殺を食い止めるための教育はこれまで、「命の大切さを伝える」「悩みの解決」といったアプローチが基本だった。そのこと自体には川野教授も一定の理解を示す。
「学校のように、集団に対して情報を出す場では『正しいことを共有する』という形で伝えることが効果的なのは間違いありません。同じ情報をみんなに提供することでリスクを下げる。『冬は手洗い・うがいを忘れずにしましょう』ということは、誰が風邪を引きやすいかに関わらず全員に伝えるべきことです。ただ、その情報共有方法が自殺予防教育でも同じように使われていることが問題をはらんでいると考えています」(川野教授)
クラス全体に「つらいことがあったら先生に相談するんだよ」と伝える。これは適切な情報であり、学校における情報共有としては正しい姿といえる。では、何が問題なのか。
「通常の情報共有と最も違うのは、メッセージを届けたい対象が集団の中でも一番辛い立場にいる子どもたちだということです。この子たちは『○○をしましょう』と言っても『はい、やります』という状況ではありません。『手洗い・うがいをしましょう』と伝えるけれど、そもそも風邪を引いて寝込んでいる子がいるようなものです」
自傷行為に及んだり、自殺を考えてしまうような「辛さ」の中にいる子どもたちには、集団に向けられたメッセージは伝わらない。自殺のリスクの高い子どもたちが「どういう子どもなのか」という理解と、それに応じた対応が必要になる。そこで川野教授らが考案したのが、学校における自殺予防教育プログラム「GRIP」だ。
クラス全体の「相談スキル」を上げることでセーフティネットをつくる
GRIPは「学級の生徒と教員が支援し合える環境をつくる」ことを目的とする。大きな特徴は、本当に支援を必要とする子どもも阻害されることなく、学級全体が学習を受け入れられるようにしたことだ。川野教授らは心理学的な理論・技法を応用し、プログラムを設計した。
GRIPでは、つらいことがあったときに生徒同士で相談し支え合う環境をつくるだけでなく、困難な状況を相談できるような『信頼できる大人との関係づくり』を重視する。
また、学級という集団全体の支援とすることで、個々人への「自殺についての教育」を前提としなくても結果的に効果的な自殺予防となるような、より実態に即したプログラムになっている。
GRIPのもう一つの特徴は段階的アプローチが用いられている点だ。プログラムは教員向けの研修から始まり、
①自分の内的状況の客観視
②対処行動
③相談の仕方
④対処困難な状況での判断
の4段階で学習を深める構造になっている。各段階では生徒と教員が共に取り組むゲームやグループワークを活用し、学級や学校が主体となって進められるよう工夫が施され、「相談する/されるためのスキル」を5時間の授業で体験的に「つかむ(GRIP)」ことができる。コミュニケーションを促進することで、最悪の結果になる前にセーフティネットにかかる環境を集団の中に作っていこうというのである。
「人の内面」に思いを寄せる眼差しが、集団を変えていく
GRIPのプログラムでは「人の感情表現は一様ではなく複雑である」といった内容にも触れる。笑っているから楽しいわけでも、皮肉を言ってるから嫌がっているわけでもない。紋切り型の認識では捉えられない“人間らしさ”も前提にして、相談(=気持ちを伝える)相手や方法について体験していく。
GRIPの効果について現場の教師からは「共通の言葉が使えるようになった」という感想が挙がると、川野教授は語る。
「例えば、みんなで何かに取り組もうとすると皮肉めいた態度で距離を取る、少し問題児のように見える子がいたとします。今まではクラスの子どもたちも『あの子はしょうがない』とあきらめ、離れて見ていた。
ところが、GRIPを体験した後だと『感情表現は複雑で、皮肉を言ってるから嫌がっているわけじゃないって勉強したよな。だから、今あいつもこんな気持ちかもしれないよね』と、先生と他の生徒たちで話せるようになってくるというのです。
そういう『共通言語』が生まれてきたことが、先生がクラスを理解したり、話し合ったりする上ですごく役立ったという言葉をいただくことがあります」
それだけではない。GRIPは自傷行為の手前にいる当事者だけでなく、そのような子の周囲にいる子どもたちの行動も変えていく可能性がある。
「リストカットをしたり、『死にたい』と言っていたりする子どもから相談を受けている子どもはたくさんいます。では、それをすぐに大人に相談するかというと、そうではない。子どもたちの世界では『大人に相談された=チクられた、裏切られた』という気持ちを引き起こしてしまうケースが多いのです。
つまり、悩みを持つ生徒が誰かに相談していることはあるけれども、支援に結び付いていなかった。それが、GRIPを学ぶことによって『理解のある大人に相談するのは友だちを裏切ることではない』と少しずつ分かってくる。するとクラス全体の様子が変わってくる。これがGRIPが目指しているものなのです」
GRIPの手法は、これまでの自殺予防教育とは全く異なる。それだけに教育現場に戸惑いがあっても不思議ではないが、「実際にプログラムを実施してみると、教師自身がこの問題に向き合う機会になった」という感想も多く寄せられるという。
心を閉ざす子どもに、親はどう向き合うべきか
GRIPによって育まれる「相談するスキル」。それは自殺予防だけでなく、親子のコミュニケーションの上でも参考になるノウハウといえる。最後に、「最近うまく子どもと話せていない」という親が気を配るべきポイントを、川野教授に聞いた。
●感情を表現する言葉を知っているか
「子どもたちが、そもそも自分の気持ちを表現する言葉を持っているかどうかは大きな問題です。小学校5~6年生の子どもたちに『みんな、うれしいって気持ちを知ってる?』と聞くと7割ぐらいしか手を挙げない。では100%手の挙がる言葉は何か? それは『うれしい』でも『悲しい』でもない。100%手が挙がるのは『むかつく』なんですね。
子どもたちが自分の気持ちを表す言葉はすごく限られていて、語彙と感情の結びつきから教えてあげないと自分の気持ちが表現できない、という前提に立つことが重要です」
●「親に相談するとメリットがある」という理解
「次に大事なのは、母親や父親への相談にメリットがあると本人が感じることです。ちょっと話すとすぐ叱られるとか、話そうしても『今はご飯を作っているんだから後にして』だとか……。こんなリアクションが続くと、相談しても無駄だと思ってしまうわけですよね。自らが良き“聞き役”であるかどうか、親として振り返ってみることが必要だと思います」
我が身を振り返って、身に覚えのある人も多いのではないだろうか? 多感な子どもたちの「感じ方」は大人のそれとは違うのだという自覚が、子どもたちを救うきっかけになるのかもしれない。