観光客や働き手として、はたまたSNS上でも、ムスリム(イスラーム教徒)の人々を見かけることが以前より多くなっている。政府によれば、ムスリムが人口の過半数を占めるインドネシアやマレーシアからの訪日観光客は年々増えていて、2017年は前年比でそれぞれ30%増、12%増だったという。
米国のある調査機関も、世界のムスリム人口は今後増え続けて2100年には最多宗教人口になると予測している。日本国内のムスリム人口も増加する可能性は大きい。仕事や生活でイスラーム理解が必要となる場面も増えるはずだ。
そこで本記事では、特に中東に焦点を当ててイスラームを研究している末近浩太教授(立命館大学)にインタビュー。末近教授は2018年に『イスラーム主義』(岩波新書)を上梓するなど、イスラームと政治の関係などについて造詣が深い。ムスリムの人々に底流する考え方や世界観など、現代日本人が知っておくべきイスラーム理解を聞いた。
ムスリムにとって信仰は「人の生まれ持った属性」
イスラームには、毎日5回、聖地マッカ(メッカ)の方角を向いて礼拝を行うという規範がある。最近は国内でもムスリムに配慮して、空港や駅、大型ショッピングセンターなどで礼拝室を備えるところが増えてきた。 “無宗教”を自認する日本人の多くはつい、「一日に5回も礼拝なんて、ムスリムの人たちは信仰熱心だな」と思ってしまうが、末近教授は「“礼拝=信仰熱心”と一律に考えるのは必ずしも正確ではない」と話す。
「ムスリムが大多数を占める中東などの地域では、宗教を信じて信仰規範に従うことは、生まれたときから“空気”のように周りに存在する、当たり前の状態です。礼拝やハラール(サイト内参考記事)は個人差もありますが、信仰に対する熱心さだけではなく幼い頃からの習慣として行われている面も強いのです。生活リズムの中に定着しているから、いわば歯磨きと同じで“しないと落ち着かない”という感覚です。
実際、彼らの多くは“私はイスラームを信仰している”とあまり言葉にしません。『空気があると信じる』なんてわざわざ言わないのと同じです。ムスリムにとっての信仰や規範は、出身地や母語のように、人が生まれ持つ属性の一つのようなものなのです」
信仰が「人の生まれ持った属性」となっていると感じた体験を、末近教授は次のように話す。
「アラブ人のムスリムに初対面で会うと、しばしば話し始めてすぐに『あなたの宗教は?』と聞かれます。これは、タブーと葛藤した上で“意を決して発した質問”ではなく、むしろ初対面同士の儀礼的な質問で、出身地を聞くのと同じような感覚です。日本人は宗教を聞く習慣がないので驚いてしまいますが、構える必要はまったくありません」
ムスリムには“規範に従うことで得られる自由”がある
もっとも、たとえ属性といっても、行動や食に関する規範は日本人から見ると自由を制限する窮屈な決まりにも思える。しかし当人たちの意識はまったく違うという。
「人は異文化を見るとき、無意識に自分の文化を当然視しがちです。そうやって私たちの常識を通して見ると、イスラームの規範は窮屈に感じられるでしょう。ですが、当人のムスリムたちはむしろ、“宗教を信じ、規範に従うことで得られる自由”を享受しているのです」
“規範に従うことで得られる自由”とは、どんなものだろうか?
「宗教による規定が多いと、たしかに自分で決められる要素は少なくなります。しかしそのおかげで、意思決定や選択について思い悩まなくて済む、“考えなくていい自由”が得られるのです。
ムスリムの視点から見た日本人の姿を説明するとわかりやすいでしょうか。日本人は神という絶対的な参照軸を持たずに、一つひとつのものごとを自分で考えて決めなければならない。人生の重要事だけでなく些細なことにも気を配らざるを得ない生活は、ムスリムにはときとして“不自由な生き方”にも見えるのです」
傍目には不自由と思えることも違う視点からはむしろ自由に感じられ、その逆もまたありえるというのは不思議だ。しかしこの不思議こそ、情報が平準化している現代の世界にあっても、異文化理解という行為を促す原動力となっているのだろう。
“構えずに、知識として”、習慣や世界観を学ぶことがムスリム理解の近道
大阪万博や東京オリンピック・パラリンピックを控え、日本でもイスラームやムスリムについてもっと理解すべきというコンセンサスは醸成されつつある。では実際問題として、日本人はどんな心構えを持つべきなのだろう?
「多くのムスリムは、非イスラム圏の国々でムスリムとして特別扱いされることを予想していないし、おそらく望んでもいません。もちろん、滞在先でハラール食を手に入れやすかったり礼拝室があれば現実的には便利で歓迎されますが、ムスリムであることを殊更にアイデンティティとして扱うのは過剰でしょう」
とはいえ、ムスリムとはどんな人たちかをまったく知らないまま自然に接するというのも簡単ではない。
「シンプルですが、必要なのはイスラームやムスリムを“知識として”勉強することです。イスラームの習慣や世界観を知識として知れば、彼らとのコミュニケーションもかなりスムーズになるでしょう。たとえば、『イスラームとは何か〜その宗教・社会・文化』(小杉泰、講談社現代新書)をはじめとして、日本には手軽な良い入門書はたくさんあります」
宗教を学ぶにあたっては、不必要に構えないこともポイントだ。
「知識が不足していたり、偏見や誤った先入観を持つと、自分に馴染みがなかったり、不快に思えることばかり目に入ってしまいます。知識として宗教を勉強することは、その信仰や世界観を持つこととイコールではないと割り切ることが重要です。
そうすれば、イスラームにはネガティブな面だけでなく、寛容性や弱者救済の精神などポジティブな面がたくさんあることに気付きます。その過程で自文化との違いや共通点を見つけることこそ異文化を学ぶ面白さです。単純に興味があるから学ぶ人も、仕事で必要にかられて……という人も、面白がりながらイスラームを学んでほしいですね」」
たとえば、どんな興味深い“違い”があるのだろうか?
「イスラームの世界観では、全知全能である神に対して、その被造物である人間は肉体的にも精神的にも弱く、すぐ過ちを犯す存在だとみなされています。
その世界観を象徴するのが、『神の望みたもうならば』という意味の『インシャラー』という言葉。待ち合わせの約束だったら、『駅で10時に集合、わかったよ。インシャラー』という感じで使います。弱い存在である人間の行いに“絶対”はない、未来のことは神にしかわからない、という意識が日常会話にも表れるのです」
このような何気ない言葉や習慣の背景を知ることが学ぶ面白さであり、さらには、偏見や先入観による誤解を解消し、コミュニケーションをより円滑にすることにつながるはずだ。
“平和な宗教か、暴力的か”という議論に意味はない
中東やイスラームに関心を持ち始めると、面白いニュースもあれば抵抗感を覚えるニュースもあると改めて気付かされる。たとえば、今年(2019年)2月に福岡で行われた格闘ゲーム大会では、なんと23歳のパキスタン人選手が優勝し、さらに「母国にはもっと強いプレイヤーたちがいる」と発言して話題を呼んだ。
その一方で4月には、同性愛や不倫に死刑を科すブルネイの新刑法が、イスラーム法に基づき施行され、世界各国から非難を浴びている。
このような報道があると、“イスラームは平和な宗教か、それとも暴力的なのか”という議論がよく俎上に載る。しかし末近教授は、そのような議論は意味がないと語る。
「イスラームが暴力的な宗教だったならば、今のように信者が世界的に増えることはなかったはずです。宗教と暴力との結びつきは古今東西の歴史で起こっていて、イスラーム固有の問題ではありません。多くのムスリムは過激派を受け入れられないし、同一視されたくないと思っています。宗教への信仰があってもなくても、人間は暴力的になり、また平和的にもなります。重要なのは、何がそうした違いを生むのか、宗教だけで説明しようとせず、政治や社会の問題と併せて考えることです」
過激派の存在や、人権侵害とも思われる厳格な戒律といったネガティブな話題は、たしかに目に付きやすい。しかし、それらがムスリム全体を象徴していると考えるのは間違いだ。自分の中の偏見を相対化し、かつ“構えずに、知識として”違いや共通点を学ぶことこそが、ムスリムを理解する第一歩だ。